ノートパソコンを起動する。
メイン画面と同時に立ち上がるウィンドウの中、OZのログイン画面が表示される。
いつものようにIDとパスワードを入力して、エンター。
【 Welcome to OZ World! 】
広がる中央エリアの光景、同時に右側に並ぶメニューアイコンからポップアップがぽこりぽこりとバルーンの形で現れる。
【 新着メールが8件届いています 】
【 本日のスケジュールが2件あります 】
ポップアップはそのまま、マイページを開いてフレンドリストを確認するけれど、軒並みグレー表示だ。ワールドクロックは午後の早い時間を示している。ワールドクロックを見るたび走る緊張にもだいぶ慣れてきた。そのうち完全に薄れてしまうだろう。
佳主馬の通う中学では一週間のうち水曜の授業が一番短く、今日はその水曜日だった。年上の友人たちがこんな時間からOZにログインすることはテスト期間でもない限り滅多にないし、それにひとりは受験生だ。そろそろセンター試験があるらしく、しばらくメールも出来ないと年始早々言っていたのを思い出す。夏希も同じく頑張っているだろう。
そして、健二もまた数学オリンピックの予選へ向けて、頑張っている最中だ。
『これを超えなきゃ、ぼくは自信を持って先に進めない気がして』
健二の声が頭の中で繰り返される。
そういう気持ちは、佳主馬にもよく判る。負けたままでは気持ちが悪い。まだOMCを始めたばかりの頃そうやって負けた相手に挑んだことがあるし、ラブマシーンへのリベンジだってそうだ。
それに佳主馬も、いい加減決着をつけなくてはならない相手がいる。
――【KK】。
どうしようと悩んで、答えを先延ばしにして来た。
もし、本当に【KK】が気まずいだけなら、気まずいのは佳主馬も同じなのだから、真紀が言うように話せば次第に解決すること。
【KK】が佳主馬に興味を失っていようと、直接お礼が言えるならそれで気はすむ。もしもう会うのが面倒だと言われたら、そこで終わり。それでいい。
結果がどう転ぼうと、もう悩むのは終わりだ。
慣れた手つきで保存していたアカウント情報を選び出す。コンソールウィンドウを開いてキーボードを操作し、少し躊躇った後、覚悟を決めてエンターキーを押す。
CALL [ カズマ > KK ] いる?
返事を待つ間、緊張のあまり息をするのにも慎重になる。
たったこれだけの短い言葉を送るのに悩んでいた期間は、去年の夏、数学オリンピックの代表になれず落ち込んでいた健二とそう変わらない。そのことに少し笑う。
ポン、と軽い電子音にいつの間にか下がっていた視線に気付いた。返事が来たのかと顔を上げ慌てて視線をモニタへと向ける。
そこに表示された文章を目にした途端、驚いた佳主馬は思わず椅子から立ち上ると、身を乗り出して何度もその文章を読み直す。
読み直しても文字は一言一句、変わらない。
赤く太く強調された文字で出来た文章が、コンソールウィンドウ、佳主馬のコールの下に表示されている。
【 そのアカウントは、削除されています 】
「――え…っ?」
* * *
じりじりとしながら、その日を待っていた。
新聞やニュースでその話題が出るたびに日付をカウントし、きっと終わったら来るだろうメールを予想して、それを待ちながら毎日を過ごす。
そして、まだ風が冷たく雪もちらつくような夕方に、その待ちに待ったメールは来た。急いでメールを開く。
【 センター終わったなう \(≧∇≦)/♪ 】
思わず佳主馬はベッドに携帯を投げつけた。
瞬時にはっと我に返って、慌てて携帯を手に取ると操作するのももどかしく、アドレス帳から通話を選ぶ。耳に当てて数秒、相手が出た途端のんきな声を出させる暇もなく、話し掛けた。
「真紀、ちょっと訊きたいんだけど!」
電話を切った後、しばらくして電話が掛かって来るのをワンコール未満で取った。
「どうだった?」
『ダメ、私もアカウントが削除されてるって言われた…。 嘘、いつ削除されたんだろ…』
「そっか…」
ベッドにどさりと力なく沈む。佳主馬からのコールが拒否されたのかとも考えたけれど、真紀まで拒否をする理由はないだろうから、やはりアカウントは本当に削除されているのだろう。
携帯の普及率と同じくらい利用されているOZアカウントが使用出来なくなる弊害は、ラブマシーンの事件で明らかだった。OZのアカウントは一人につき、ひとつ。それ以外は有り得ない。だから、アカウントを失うということは――。
「…知り合いの人が」
『えっ?』
佳主馬がぽつりと呟く声に、電話の向こうで佳主馬と同じ考えに至っていたのだろう、沈んでいた真紀が声を上げる。それに腹筋だけで体を起こし少し声に力を入れ直して、もう一度言った。
「前の、夏の事件で。アカウントのデータを復元出来なかった知り合いの人が、アカウントの再申請、してた。だからもしかしたら他にも、アカウントを奪われた時にデータが壊れて再申請したひとが、居るかも知れない」
『あっ、そうよね! 【KK】ももしかしたら、そうしてアカウントのIDが変わっちゃったのかも!』
真紀が考えを振り払うように、明るい声を出す。けれどその声はすぐにまた、寂しげに変わる。
『連絡、貰えないのは残念だけど…仕方ないよね。だって、あの時だけしか付き合いがないし』
その言葉にずきりと佳主馬の胸が痛むのは、後悔か、それとも罪悪感か。もっと早くに行動していれば、こんなことにはならなかった。悩む時間を何故行動に使わなかったのだろう。
いつまでも先延ばしにしていた、そのツケが回って来たのだ。しくじった。そういうこと。もうどうにもならない。取り返しがつかない。
(あんなに、頼りにするだけしておいて、僕は)
はあ、と深いため息をこぼすのに、真紀がそっと声を掛けてくる。
『佳主馬は結局、【KK】とは話せないままだったの?』
「うん…」
『そう…。残念だね』
佳主馬を気遣ってくれる真紀の優しい声が、気持ちを宥めてくれるけれど、自己嫌悪が強くて今は少し、辛い。
「…急に、悪かったよ。ごめん」
『ううん。こっちこそ、力になれなくてごめんね』
真紀まで本格的に落ち込みそうな声音に、慌てて話題を変える。
「それより受験、本番まで後少しだろ。気を抜かずに行きなよ」
『うっ…明日の新聞が怖い…』
電話の向こうで頭を抱えていそうな真紀が頭に浮かんで、佳主馬は仕方がないなとこころの中で呟く。
「大丈夫。栄おばあちゃんならこう言うよ、あんたなら出来るって」
電話の向こうで彼女はしばらく沈黙していたけれど。
『…うん、そうだね。出来るところまでやってみなくちゃ』
返って来た答えは彼女らしく明るかった。
(僕はやれることを、しなかった)
だから、【KK】との縁が切れた。自業自得だ。失うかも知れないことに気付いていたのに、行動に移るのが遅かった。だから失ったことを寂しく思う権利はない。
あの時佳主馬を助けてくれる能力を持った【KK】に出会えた偶然は、どれくらいの確率だったのだろう。ラブマシーンの事件の時、健二が陣内の家に居るのと同じくらいの奇跡だったに違いない。
勝負運が強いのは夏希だけれど、佳主馬もそう悪くはない。そうして引き当てた二度とない幸運を、自分の手で切り離してしまった。
自分のこころに隙間が出来たような気がして、再びベッドに寝転がった状態で、鳩尾付近の服を強く握りしめる。
とても頼りにしていた。佳主馬にしては珍しいほど無防備に。数学が得意な人はみんなそうなのだろうかと、健二のことを連想して。
――もし、これが健二なら?
もし、健二を【KK】のように、こんな状態で失ってしまったら。
そう思った瞬間、佳主馬はベッドから飛び起きて、愕然とした。