春休みの間、佳主馬は珍しくクラスメイト、認識改め友人達と予定を決め度々外出して、聖美を喜ばせた。

 そういうことで喜ばれるのは正直、複雑だ。

 人と関わるということは、しがらみのような束縛感を感じる。今まで好きな時に好きなことをして来た時間が、思い通りにならない面倒くささを味わう。未だに集団を嫌うのはもう、トラウマ程は酷くはないものの生理的なものだと知っているけれど、人間は大人になるまで集団で行動していないと不安になられてしまうから、我慢とか、そう、妥協するべきものなのだということも判っている。学校以外でそういう努力をするのは、はっきり言えば時間の無駄だと言いたいくらいだけれど。

 それじゃダメなことを嫌と言うほど理解したので、佳主馬はその妥協の範囲をもう少し、広げてみようと思ったのだ。

 佳主馬としては、健二に対して【KK】と同じ過ちは絶対にしたくない、という気持ちで人付き合いを始めたけれど、やってみれば以前よりは気が楽に人と付き合えたのは、佳主馬のこころが少しでも成長したからだろうか。健二と佐久間で少し、慣れたからかも知れない。聖美もそれを見越していたのだろうかと思う。師匠の教えの通り目と耳を鍛え続けているのもあって、今のところ友人づきあいではトラブルもないけれど、健二のことでは全く役に立たない気がするのは、佳主馬が健二にだけ、すぐに混乱してしまうからか。

 友人が出来たから健二に対する感情に変化が起こるかも知れない、という期待半分、不安半分の気持ちで過ごした春休みは、数学オリンピックへと集中する健二に遠慮して、OZや携帯でのやりとりを自重するのが焦れったくてもどかしくて、だから連絡が取れた時はよりいっそうのめり込んだ、という結果に終わった。この結果が期待の方なのか、不安の方なのかは自分でもよく判らない。

* * *

 5月の連休、健二が受験を捨てて臨んだ数学オリンピックの合宿を終わらせ、上田にやってくるのに合わせて、佳主馬も、その他時間の取れた親族達も、上田の屋敷を訪れた。

 健二が去年は逃した日本代表という席を無事に獲得することが出来たので、その祝いに駆けつけることになったのだ。

 受験でさすがに夏の来訪はムリだろうからと、去年のお礼も兼ねて佐久間も連れてやって来た夏希と健二は、報告をしに栄の墓参りに赴いている。佳主馬も佐久間も誘われたけれど、思うところがあろうとそこは空気を読んで邪魔をしないのが鉄則だ。

 健二と同じ客間に荷物を置いた後、通されたリビングでくつろぐ佐久間の周りに自然と人が寄ってくる。理一にやはり連れられて来た侘助は、ハヤテの相手をしながら縁側に腰掛け背中を見せていた。

 理一や侘助は、東京やOZで健二や佐久間と個人的に会ったり、連絡を取り合っているらしい。文化祭にもそのついでに行っていたと言う抜け目ない独身コンビに対して、佳主馬は内心大人の自由さを羨む。

 日常や近況から流れていって、夏希と二人で出かけた健二について、佐久間と大人たちはにやにやと話をしていたけれど、不意に理一が佳主馬へと視線を向けて問い掛ける。

「そういえば、佳主馬。あの可愛い子はどうなんだ。去年、ヘリで東京まで送っていった時の」

「…真紀なら、彼氏が出来たってメールが来てたけど。写真付きで」

 これでもう、あの寂しがりで怖がりな真紀も大丈夫かと思ったら、佳主馬も素直に祝福出来た。今度から寂しくて怖い時はそっちに手を繋いで貰いなよ。そう返事を返したところだ。

 佳主馬の返事に周囲の大人ががっかりしたようなリアクションをするのに、眉間に皺が寄る。何を勝手に期待してたんだか。そう冷たい視線を向ければ、理一が演出過剰なため息を吐いた。

「なんだ、佳主馬も意外と意気地がないな」

「あっちは18だよ!? どうにかなる、ならないってレベルの話じゃないだろ!」

 ご褒美的に額にキスを貰ったって、付き合うことにはならないだろう。自分が年上の立場だったら、はっきり言って守備範囲外だし、初めて家族じゃない異性とたとえ隣で寝ようとも、今だってそういうことは全く考えたこともない。

 しかもあの時は真紀にお姫様抱っこされるという、屈辱付きだ。色々と仕方がなかったとはいえ、今思い返しても衝撃的すぎて怒ると同時に落ち込んだ。

「ちょっと年齢的にマズいかな?」

「いやいや、本人たちが真剣なら…」

 他人事だと思って、勝手に想像を広げながら話している大人たちがたとえ親戚だろうと、うざったいものはうざったい。まさかもう酒が入っているんじゃないだろうな、と思いながら睨みつける。

「だから、彼氏居るって」

「情けないな佳主馬、それくらいで負けるのか?」

「あのさあ、なんで僕と真紀をそんなにくっつけようとするわけ!?」

 そろそろ限界に達して来た、イラつきをなんとか堪えながら訊く。佐久間には悪いがこれ以上大人たちがタチ悪く絡んでくるのなら、佳主馬は納戸へ行く。なんなら佐久間を連れて行ってもいい。

 そこに、今まで黙っていた佐久間がふと口を開いた。

「マキって、あの時の女の子だろ? へー、年上だったのか。でも、うん、確かに可愛かった」

 この場では理一しか知らないことを、何故か佐久間が知っているかのように言う。

 うんうん、と頷くのに、佳主馬と理一の怪訝そうな視線を受けた佐久間が、きょとんとメガネの向こうで瞬きする。

「あれ、違う? 去年の、GWの彼女」

「そ、うだけど…なんで佐久間さん、知ってるの?」

「……え。うっそ、」

 驚いた佳主馬が向けた問いに、更にきょとんとした佐久間が、打って変わって重い重いため息を吐いた。

「健二のヤツまだ言ってないのかよ…あのバカ」

 佐久間が頭痛を覚えたように俯いて、額を押さえる。その状態のまま首を何度か振った後、ぱっと勢い良く顔を上げると、自分でクイズ番組特有の効果音を付けて言った。

「ここでキングに質問です。数学バカの小磯健二ですが、またの名をなんというでしょう?」

「え、愉快犯?」

「ブッブー! 太助さん、それアウト」

 佐久間がすかさず却下する。佳主馬と理一から向けられた視線にはは、とばつが悪そうな顔で太助が苦笑した。

 質問された当人である佳主馬は、まだ質問の趣旨が判らず首を傾げるだけだ。そのまま佐久間が続ける。

「ヒントその1、健二はOZの保守点検のバイトをしていた。その2、去年、数学オリンピックの日本代表になり損ねた」

「すでに今出てる情報が、ヒントかい?」

 理一が面白そうな顔で探るのに、佐久間がにやりと笑って返す。

「少なくともキングにとっては、非常に大きなヒントだと思いますけどね」

(そんなこと言われたって)

 健二の基本情報がヒントと言われたって、何がヒントなのか全く判らない。まだぴんと来てない佳主馬の様子を見て、にまにまと解答を待っている佐久間が指を三本立てた。

「んーじゃ、最後の最後、もうこれほぼ答え。ヒント、その3! 小磯 健二のイニシャルは?」

「そんなの――、」

(小磯、健二なんだから、K…、)

 瞬時に答えに辿り着いた佳主馬の思考がそこで止まった。驚きのあまり全ての行動が停止する。目を瞠りぎこちなくゆるゆると顔を上げた先、佐久間がにんまりと笑っていた。周囲の大人達が変な顔でこちらを見ていようが、それどころじゃない。

「みんなー、おやつ食べよー!」

 いつのまに帰って来たのか、キッチンの方角から柏餅の乗った大きな皿を抱えて、夏希と健二がダイニングとリビングへ入ってくる。佳主馬は呆然としたまま健二を視界に収め、佳主馬が半年以上も頭の隅に留めていた重要な名前を、吐息に近い音でやっと、口にした。

――……KK……?」

「あ…、」

 遊べ遊べと健二の周りにまとわりついていた子供達の声でかき消されそうだったその呟きは、けれど確りと目が合っていた健二には聞こえたらしく、歩みを止め困ったような表情をしながら彼は恐る恐る片手を挙げ、観念したように答える。

「はい。エリアマスター番号075の、【KK】です…」

 その瞬間、佳主馬と健二の間だけ、時が止まった。

――な、」

 見つめ合う中、呼吸も何もかもが止まっていたのに無意識に漏れた一言、それを切っ掛けに佳主馬の感情が爆発する。

「なにやってんだ、あんたは――ッ!!」

 無意識に立ち上がった佳主馬はそのまま健二へと詰め寄った。健二の手を乱暴に掴む。健二が持っていた皿は、すでにテーブルに皿を置いていた夏希が咄嗟に受け取ったので被害はなかったけれど、周囲の子供も大人も唖然と佳主馬の様子を見ていた。見られていることは判っていても、とても止められるものじゃない。

 これはあんまりだ。酷すぎる。

「信じられない!! なんで言わなかったの、健二さん!」

「いや、あの、な、何度も言おうと思ったんだけど! ラブマシーンの後だとなんだか今更って感じで、凄く言い出しにくかったって言うか…! 結局、あの時は数学オリンピックもダメだったし!」

「ダメだろうとなんだろうと、言えよ! 勝手にフェードアウトするなよ! 僕がどんな気持ちだったか、判る!?」

 ここ数ヶ月、焦ったり落ち込んでたことは一体何だったんだ!

 そう怒鳴りそうになって、ぐ、と言葉を飲み込んだ。これは、違う。今のは八つ当たり。落ち着こうと何度か呼吸を繰り返して、無理矢理感情を抑え込む。

「…会いに来るって言うから、待ってたのに。僕との繋がりなんか、そんなに簡単に切れるものだったんだ」

「だって、ぼくはただのキング・カズマのファンの一人だし、何ヶ月も間が空いちゃって、佳主馬くん、秋の大会もあったし忙しいだろうし、きっともう覚えてないだろうって、そう思って…」

 青い顔してびくびく答える健二に、また激情が戻ってくる。そういう態度取るってことは自分が悪かったと認めてるんじゃないの、と言いたくなるけれど、実際は佳主馬にも悪い部分があって、一方的に責められてるのにやっぱり佳主馬には何も言い返さないし、そして彼がびくびくしているのは、佳主馬が怒っているからだ。怖いと思われているのに腹が立つ。実際怖いと思われるような顔をしているのだろうけど、それでもだ。何もかもが頭に来る。

 健二によってもたらされた感情は全部、押さえようがない。

「覚えてるよ! 健二さんは、僕が恩人との約束を忘れるようなヤツだってそう、思ってたの!?」

「でも、その、あの時…二日くらいしか」

「忘れるもんか! その二日間で健二さんは僕を助けてくれたじゃん。長野までわざわざ来てくれて、助けてくれる時あんただって危なかったし、それで風邪までひいて、その前だって後だって色々させた! それで忘れるだなんて恩知らずなこと、誰がするっていうんだ!」

 握りしめた手首を力の限り握りしめる。ぎちぎちと手が硬直してしまうほど、健二に跡を付けてしまいそうなほど。
この、胸を荒らす感情が痛みとしてでもいい、健二に少しでも伝わればいいのに。

「あんたは僕に、それだけのことをしてくれたじゃないか!」

 見詰めた先、健二は佳主馬と違ってただ、静かだ。凪いでいる。

 自分の受けたショックが理解されていないような、歯がゆい気持ちで泣きそうだ。伝えたいのに届いていないようで、もどかしくてたまらない。自分だけがこんなにもショックを受けているのかと思うと、激情で体が震えるのを、奥歯を噛み締めて堪える。

「どうしたの、佳主馬。佳主馬が大きな声を出すなんて、珍しいじゃない」

 妹をあやしながら聖美が、驚いた顔をしてリビングへと入ってくる。

「ええ? 佳主馬が健二君とケンカとか、有り得なくない?」

 続いて入って来た直美も不思議そうな顔をしている。そうして湯呑みを運んで来た万理子たちや、早々に仕事を切り上げて来た翔太も次々と部屋に入ろうとして、空気の異変を感じたのか、入り口付近で歩みを止めて二人を見詰めた。

 周囲の人間全てが佳主馬と健二の動向を窺っているのに気が付いて、佳主馬は怒気を堪えぐ、と感情と共に言葉を無理矢理抑え込む。

 このままでは大人たちが介入して来て、うやむやにされそうだ。

「…ケンカじゃない。 行こう、健二さん」

 掴んだ手を引いて、よろめく健二を強引に屋敷の外に連れ出した。