1.

 降谷は展示された絵の前に立っている。

 人物以外の所は平面的に。人物の部分は写実的に。黄金に彩られたキャンパスの中を漂うような、または黄金を纏うような、まるで夢想の世界だ。

 女の裸体を赤裸々に、惜しげもなく晒し、けれど恍惚とした表情をしたもの。男からの接吻をまるでキリストからの祝福かのように瞼を閉じて受ける、その甘美に満たされた貌。幻想的な、しかし鬱蒼とした園の中で口づけを交わそうとする男女の持つ、官能的な悲壮感。妖艶な雰囲気の中、まるで幼子に対するかのように、覆い被さる男を慈愛を持って抱きしめる女のたおやかな腕。

 そして愛と同列に、無造作に置かれる死の匂い。

 日本や東アジアの文化の影響を強く受けている、世紀末のウィーンで活躍したこの画家が持つ独特の生死、そして退廃が齎す淫靡的要素が込められている。

 彼の描く女達は、皆、全てを委ねるように男を受け容れ、男の身勝手さ傲慢さ、なにもかもを許すように包み込み、夢見るように瞼を閉じて唇は幸福に撓り、陶酔感に浸っているように思えた。

 この画家が生涯求めたテーマのひとつに、ファム・ファタルがあった。良くも悪くも男の人生を狂わせる、宿命の女。

――俺の場合は、『オム・ファタル』、か)

 降谷が恐れる子供が人生の破滅へと導くのは、バーボンである安室か、降谷か、それとも。

 この空間に浸され空想めいたことを考えながら、水の流れのようにゆったりと足を進める。

 美術館の中は静かだった。

 潜められた私語が風に揺らされる葉音のようにさざめき、こつりこつりと響く靴音が交差する中、不意に降谷は手に持っている、受付で渡されたリーフレットを落とした。紙が落ちつるりとした床を滑る音がする。

「どうぞ」

「すみません」

 通りすがりのカジュアルスーツの女性が拾い上げてくれたのを、軽く会釈して受け取った。その女性は別の展示された絵の前で立ち止まる。その背後をリーフレットを読むふりをしつつ挟まれたメモを確認しながら通り過ぎ、適度に足を止め、展示された絵画を眺めながら降谷は悠然とした足取りで出口を目指した。

 次の目的地までのルートはもはや考える必要もなく、体に染みついている。美術館を出た先で、メモごとリーフレットを畳みジャケットの内ポケットへと入れながら、足は自然と地下鉄へ向かっていた。

 途中で降車し二駅ほど歩いて駅ビルにあるコンビニで水と、この外見年齢の男が買うだろうというような商品を適当に選ぶ。コンビニのレジ袋を手に提げたまま駅前広場を目指した。日中の陽射しが眩しい。五月も半ばを過ぎれば徐々に気温が上がってきて、これから暑くなってくるだろう。

 噴水の周囲で話し込む人や何か書籍を読む人、スマホに夢中になる人。様々な人が集う駅前広場で、降谷もまた座れる高さの縁石に腰掛け横にレジ袋を置き、人待ち顔でスマホを弄り始めた。タイマーをセットする間に、せかせかとした様子のサラリーマンが電話をしながら近付いてきて、レジ袋の向こう側に座るとビジネスバッグを片手で大きく開け放ち、ノートPCを乱雑に取り出しUSBメモリを差す。

「その件ですが、こちらのデータでは間違いなく、先日お渡しした数量のままのはずですが…ええ。いえ、こちらではそういうことは……なので、はい、」

 片手で器用にカチャカチャと忙しなくキーボードを叩き、何かを確認してはうん、と頷く動作をする。ディスプレイに次々と表示される幾つかの情報。そうしてサラリーマンは電話の応対をしながら、PCを閉じると側面に挿していたUSBメモリを抜き取った。それはごく自然な動作でビジネスバッグが陰を作った降谷のレジ袋の中へ。

 セットしていた降谷のスマホのタイマーが、着信音を鳴らした。

「もしもし…ああ、」

 スマホを耳に当て通話中の振りをして、降谷はレジ袋を手に取るとその場から立ち去る。

 来た道を逆方向にしばらく歩き、その分を電車で戻り、駅内のコインロッカーから預けていたカジュアルバッグを取り出す。トイレでジャケットをパーカーに着替えレジ袋と共にカジュアルバッグに入れると、帽子と眼鏡を身につける。別の路線に乗り換えるため、同じ方向に歩く似たような服装をした人間の傍でつかず離れずの距離感を保ちながら、人混みに紛れ駅構内を移動していった。

 そうして辿り着いたのはカメラのみ設置してある無人の視察拠点で、灯りが窓から外に漏れないよう配慮しつつ降谷はバッグの中からモバイルサイズのノートPCを取り出すと、レジ袋から取り出したUSBメモリの中身を確認した。

 公安には商社や出版社など、あらゆる職種で普通の会社員のように働いている潜入調査員がいる。協力者の場合は相応の店や場所を使うのに対し、彼らとは出来るだけ接触していることが周囲の記憶に残らないよう、努めなくてはならない。

 こちらの要求した情報が過不足なく揃っていることを確かめて、データ丸ごとのコピーをPCへ取り、情報を取捨選択したものを新規のUSBメモリに入れる。データの中のいくつか気になる名前と、その関係については風見に回すとして、降谷は時間を確認した。夜にはこの検分したデータと美術館で手に入れたメモの内容を使って、バーボンとしての仕事があった。

 人目を警戒しつつ視察拠点から出て歩き出しながら、ふと、視線を上空に向ける。

 夕暮れが夜の始まりを告げていた。

 

* * *

 ずっと暗闇を歩いている。

 誰にも気付かれず外敵を排除し、成果を認められることもない、精々が足元を照らす程度の僅かな光を頼りに、ずっと。

 五年に及ぶ黒の組織への潜入期間は、まだ短い方だ。公安の調査員だけではなく、ゼロに所属するエージェント直々に潜入を要す組織なだけはある。その場の判断で捜査を企画し、オペレーションを行える権限を持つのはゼロで、事態を俯瞰して把握し、潜入している調査員にタイムラグなく迅速な指示を出す現場の先鋭化が認められていた。

 本来の素性を完全に秘匿し、潜入時に得た情を幾つものかおで欺き、裏切り、命よりも優先するものを持つ。

 恨まれようとただ、一つの信念のために鍛えられた能力を使い違法な作業もこなす。何の代償もなしに護れるものではないし、生半可な覚悟でこんな仕事は出来ない。その生き方に誇りこそあれど、不満などあるわけがなかった。

 日本という国を害そうとするもの、その喉笛に先んじて食らい付かんとする猟犬、狼であろうとしてきたからだ。

 公安は疑い続ける。その果てに誰も信じられなくなる者も居た。結果だけを求められる孤立無援の公安の捜査員はそうなりやすい。隣の席の同僚だろうと互いの捜査に関して話さないくらいに、同じ作業を担当していなければほとんど関わり合いを持たない。公安同士ですら腹の探り合いになる。

 だからこそ、公安内でも信用出来る人間関係の構築は情報源としてだけでなく重要だった。それは警報装置にもなってくれるからだ。そうやって何重もの警報装置を間に置いて、身を守る。

 それが、けして失えない友の命でも。

 命よりも、守らなければならないものが他に、あるからには。

 終わりの見えない暗闇を歩く降谷が、今、見詰めるのは光ではなく、友を失った遺恨による己の内側から溢れる炎だ。この炎はいつも降谷の胸の内側を常にじりじりと炙り、時には猛火となって降谷自身を焼き尽くそうとする。目の前を覆い尽くし、理由も目的も、行く先すらもが見えないほどにも強大になることもあった。

 膨らみ続けるならそれで構わない。そうでなければ。そうでなければ、何故。何故あの男は。

 自分は上手くやる。ああ、そうとも、今度はこちらがあの男の命を使って、必ず組織の中枢に食い込んでやる。死ぬ方がマシと思えるような目に遭うか、それともジンがいつものように呆気なく殺すかは知ったことではない。降谷が組織をこの手で壊滅させることで、やっと友を弔うことが出来るはずだ。

 その思いが頭を過るたび、降谷は安息のない明けない夜を、陰鬱な暗闇をただひたすら、綱渡りで息を殺して歩き続ける。

 ――いつか。

 いつか、この炎は降谷自身を取り込んで殺すかもしれない。

 抜け出せない檻とは違って、これは進んで囚われた妄執だ。降谷の歩くこの先に、足元ですら光はもう、届かないだろう。

 そうしてずっと、仄暗い炎を見据えて暗闇を歩いていた。

 目的を達成するまでは休息もなく、歩き続けるのだとそう、思っていたのに。

 ある、春のことだ。

 エッジ・オブ・オーシャンで起きた爆発は、推測通り事故ではなくサミットを狙ったテロだと降谷は確信していて、だが無力だった。

 口外出来ない立場の人間からの情報を得て動くことのある公安と違って、警察は証拠のない話には付き合わない。自分でも口にした言葉だが、だからこそ重くのしかかる。逆に証拠さえ揃えば、警察は事件として扱わざるを得ない。あの状況で表立って捜査出来ない自分にやれることは、違法作業を企画し実行することのみ。

『判らない。でも、やらないと!』

 大観覧車の上で聞いた、子供の声が脳裏に響く。ああ、そうだ、やらなければ。

 これは犯人を捕まえなくては終わらない事件だ。

 奔走したがどうしてもテロとしての確証を得ることは出来ず、覚悟して毛利 小五郎を、彼に繋がる人間達を巻き込んだ。彼らを追い詰め、追い立てるシナリオはすでに動き始めている、その夜明け。うっすらと空が白み始めた頃、埋め立て地を臨む沿岸にある公衆電話ボックスから風見に連絡を取ったとき。

 朝焼けを見た。

 はっと息を呑む。

 空気の澄んだ青く染まる夜の底を、太陽の光が切り裂く一瞬のブルーモーメント。

 彼誰時を春暁が広がっていく。

 太陽というのは昇り始めたらあっという間で、眠る東都に建ち並ぶビル群の輪郭を徐々に浮き彫りにし、空が、海の表面が金色にきらきらと照らされ乱反射する様は鮮やかで眩しい。見えざる神の手がもたらしたかのように、一瞬で夜の気配を払っていく。視界一面に広がる陽の光に傷付いた体が撫でられ、慈しんで包まれるかのようだった。

 目覚めの、始まりの朝だ。

 その美しさに目を奪われ、降谷は受話器の向こうの風見におざなりに返事を返すと受話器を置く。

 ――もう長いこと、胸の底から満たされていくようなこのあたたかさを、忘れていた。

 そこには深い安寧があった。

 全くなにも解決すらしていないのに、もう、おそれるものは、迷うことは何一つないのだと。北極星を見付けた砂漠の旅人のような、確かなものへの安堵感。

 ああ、大丈夫だ。降谷を出し抜いたあの子供は、あの名探偵は守りたい、大切なもののために謎をすべからく無遠慮にあばき、真実を見抜き、必ず明らかにするだろう。

 キュラソーによるNOCリスト漏洩を含む東都水族館の事件で、降谷はすでに江戸川 コナンと名乗る小さな探偵の、真実を求める強く澄んだ心と、どんな状況だろうとけして諦めず冴え渡る鋭い頭脳と、問題を解決するための勇敢さを持ち合わせた行動力を、認めている。

 彼を今回巻き込んだのは、大切なものを守るためならどんな捜査もやり遂げてしまうからだ。そこが、降谷の信念と重なった。だがそれこそが最も重要なことだった。降谷にとって、その事実こそ信用できることはない。己と同じだからだ。たとえ彼がうそつきだろうと、その行動理念こそに価値があった。

 降谷の取った行動は、彼の正義を踏みにじるだろう。

 今後彼にどう責められようと、詰られようと構わない。自分のことはどうでもいい、所詮は偽りの人間だ。ただ、この国が守られればそれでいい。

 毛利 小五郎はもちろん、あの小さな探偵に許されることは恐らくないし、許されるために己が企画した違法作業に自らカタを付けるわけではないのだけれど。

 あの時確かに、光はそこにあった。

 小さな、けれど明瞭な希望の形をして、降谷の目の前に。

 日下部検事は降谷と同じく、一人の人間のために、その憎悪と復讐を自分に許した男だった。

 正義の為なら少しの犠牲はやむを得ない。独善的だがその考えは降谷自身と僅かながらも通ずるものがあって、協力者を『ゼロ』に無許可で作っていなければ、そして引き起こした行為がテロでなければ、彼に幾ばくかの親近感を持ったかも知れない。

 だがその日下部に、コナンは『そんなの正義じゃない!』と、はっきり降谷の――安室の目の前で断罪した。

 犠牲が生じるのを許容するのは正義ではない、というだけではなく、復讐から行使した報復的正義にはもはやその資格はないと、眩しいほど暴力的な、言葉で。けして綺麗なものだけ見てきたのではないはずのに戦慄するほど透き通った、その瞳で。

 ああ、そうとも、これは正義ではない。ただの復讐だ。

 友人達から託されたものを礎に、完璧であろうと努力してきた。目的の、任務達成のためなら良心や倫理観すら押し殺して潜入捜査を成し遂げてきた。ここまで来てもはや手段は選ばない。自分の人生を懸け地獄へと踏み出したのだ。なまなかな覚悟や信念でやってはいない。今更他人に何を言われようとも、もはや揺らぐはずのない決意だ。

 そう、反発する心は確かにあるのに。

 だが、あの小さな体ぜんぶで。

 あの聡明な瞳で、見詰められたら。

 いや、今回彼が真実を明らかにしてくれると信じ、安堵したあの瞬間に、もうきっとダメだったのだろう。

 赤井 秀一を追い詰めたはずのあの時、出し抜かれたことに悔しさでも怒りでもなく、称賛を覚えてしまった時点で、あのうそつきな子供に降谷の心の一部を、彼に預けてしまったのだ。

 江戸川 コナンは、自分たちが目を背けざるを得なかったものを、取りこぼさざるを得なかったものを、あの小さなてのひらで救って拾いあげる。

 だが、やはりそれは困難で、無事に成し遂げられるとは限らない。彼は大抵、その無茶のツケを怪我や、最悪の場合命で払うことになる。現にカジノタワーへのカプセル衝突を防ぐべく、建設中のビルからRX-7もろとも飛び出したあの時、生きて帰れる保証はどこにもなかった。

 あんなことはいくら違法作業を行う公安でも絶対に出来ないし、まずその発想がないだろう。実際に各自が負った傷も軽くはなかったが、死ぬつもりも諦めることも絶対になかったコナンは、とうとうあの小さな体でやり遂げてしまった。

 ――そうして彼は知らず、降谷の信頼に応えてしまった。

 年齢や体の幼さなど関係ない。その判断力が、能力が全てである公安の降谷が認めた探偵はやはり、素晴らしくも恐ろしい男だった。

 コナンのあの、透き通るうつくしい夜明けの青に見詰められると、大抵の人間が心のわだかまりを吐露してしまうように、求められれば持てる全ての力を使ってでも、彼の力になりたいと思う。

 協力者に仕立て上げたときからコナンの望むものが降谷の正義に沿えばそのつもりではあったが、頭の奥でバチバチと火花が弾けているかのような全能感と、そうすべきだと、そういう引力のようなものが彼にはあって、だからこそあの奇跡の結果を引き寄せられるのだろう。

 そうして彼はまるでヒーローのように降谷の目の前に立ち、最後の謎を突きつけ、その答えを受け容れ、微かに切なく笑った。

 その姿は目映い。暗闇に生きる自分にとっては、特に。

 彼はこれからも、いついかなるときも…それこそ敵対したその瞬間でさえも、降谷の正義を問うだろう。その小さな体の大きな存在感、すべてで。

 眩しくて仕方ない。

 燦然さんぜんたる春の目覚めだった。

 あの出来事は、降谷の暗闇に満ちた孤独な世界を次第に変えていった。

 憎しみの炎に引き摺られ目が眩みそうになるとき、いつしかあの電話ボックスで不意に目にした、美しい朝焼けの瞬間が取って代わって脳裏に広がる。

 自分の方を向け、目に焼き付けろと言わんばかりに、颯爽と現れて全てを攫っていってしまう。――コナンのように。

 そうしたら、もう目が離せない。その直前何を見て考えていたかも、燻った重い気持ちを抱えていたことすら、宥められてしまう。

 それをいつも、降谷は目覚めの朝のように感じていた。

 眩しい金色のひかり。

 あの春から、降谷には世界で一番優しい朝が来る。

* * *