2.

 連休も過ぎた五月の中旬、金曜日の夕方も夜に近付いた頃毛利探偵事務所に来た依頼は、先月事故死した和野わの 宣久のぶひさという人物が残した遺産についての相談だった。

 結婚して早くに妻を亡くした和野は子供もおらず、しかし会社経営をしており資産家だったため、それなりの遺産があった。和野家の長男だった彼には下に弟や妹は居たので、遺産は法律通り兄弟達に分配されることになるが、遺言状があるという。だが、その遺言状は和野自身が隠しており、弁護士が言うには期限内に遺言状を見付け出した者がより多く遺産を贈与されることになっていた。

「それで、あなたは遺言状を見付けたいんですな? 和野 宣久さんにとっては末妹である、あなたのお母様の代わりに」

「いえ…あの…」

 船石 実咲という二十代半ばくらいの、春に似合う爽やかなライムグリーンのジャケットを着た女性の依頼人は探偵事務所のソファに座って、言いにくそうな素振りをしたものの、ゆっくり口を開いた。

「お恥ずかしながら、私、どうしても伯父が結婚前に伯母に贈った形見のネックレスを譲って欲しくて…以前から約束していたんです。それさえ手に入るのなら、他は、その、正直興味がなくて。でも、他の親戚達はそうじゃないので…もし親戚達が遺言状を手に入れた場合、そのネックレスも持って行ってしまったらどうしようかと、不安になりまして…。私が伯父と交わしていた約束も、所詮は子供の頃にした口約束に過ぎませんし。

 なので出来れば、他の親戚達が遺言状を手に入れる前に、そのネックレスだけを手に入れたいんです。それが難しいなら…」

「ははあ。それが難しいなら先に遺言状を手に入れ、ネックレスだけを手元に残し、遺言状の方は親戚に譲る…そういうことでよろしいですかな?」

 小五郎の言葉に、こくりと実咲は頷いた。

「はい。母も、こういうことで親戚達と無闇に争いたくないと言っていますし…なにより、和野家から出た身ですから」

「まあ、遺言状を見付けた分の上乗せがなくても、遺産が全く貰えない訳ではないですからね。期限内に遺言状が見付からなければ、法律通りの受け取りになるでしょうし、探さないこともそう損ではないのかも知れませんな。――分かりました。この毛利 小五郎にお任せください」

 遺言状を探すより、ネックレスを探す方が断然楽だろう、と、そう判断したのか、小五郎は依頼を引き受けた。確かに小五郎は頭を使うことよりも、ネックレスがあるだろう伯父宅を捜索する方が得意分野だろう。まあ、毛利探偵事務所は有名になろうと基本的に、依頼をえり好み出来るような経営状態ではないのだけど。

「よろしくお願いします」

 実咲はほっとした顔をして、小五郎に頭を下げる。よほど現状に困っていたのか。切望するネックレスが他の親戚に持って行かれるかと思うと焦りもするだろう。コナンは今回、自分の出番はないかもしれないな、と思いながら、小五郎の傍でただ黙って話を聞いていた。

「それで、ネックレスは和野さんのお宅に?」

「それが、伯母の宝飾品は全て、遺言状と共に伯父が隠したと弁護士さんに言われました」

「えっ、それじゃあ結局、遺言状を探すのと変わらないのでは…」

「そうなります…ね…?」

 簡単な方を選んだつもりが、結局同じだった。慌てる小五郎の様子に戸惑いつつ実咲が答えるのに、二人に見えないところでコナンは、はは、と苦笑いをする。

 咄嗟に取り繕って、小五郎は彼女になにか手掛かりがないか尋ねた。それに応えて実咲はトートバッグから取り出した封筒を小五郎へと差し出す。

「これは…写真ですな」

 受け取った小五郎がそこそこ量がある写真をテーブル全面に大雑把に広げ全体を見渡し、顎に手をやりふうむとひとつ考え込んで頷く。コナンはテーブルの一辺にこっそり近付いたが、身長の関係でテーブルの上の写真を見るには爪先立つどころか完全に足を浮かせるしかない。

 テーブルに乗せた両腕の上に体重と顎を乗せて、ぶらぶら浮いた足を揺らしながら広げられた写真を眺める。いずれも60代くらいの同じ男性が映っている、屋外の写真だ。

「伯父は以前から旅行が好きで、伯母が生きていた頃も、体調が良い時はたびたび小旅行に出掛けていました。旅先では、たまに写真をこうやって送ってくれてて…それくらいしか思い当たるものが特にないので、きっとヒントなんじゃないかと思うんですが」

「それっていつくらいから? 奥さんが生きてた頃から送ってきてたの?」

「ええ。でもそうね、旅行に行くたび毎回送ってくるようになったのは、多分三年くらい前からかな…」

 コナンの問いかけに、実咲は目を閉じて考え込みながら、返事をする。

 では、遺言状を作ったのはその時期だと考えられるだろう。

 独り身の和野の年齢的に、三年前に遺言状を用意するのはそうおかしなことでもない。人間、いつ死ぬか判らないし、特に彼は資産家だ。いつ作ろうと早いということはない。それに遺言状は基本、定期的に更新するものでもあるし。

 遺言状の管理を任されていた弁護士が撤回をしないのなら、謎とヒントはすでに全て提示された後、ということ。それならば親戚一同の条件は現在、同じはず。その中で心当たりがあるのが今のところこの写真だけというのなら。

(なるほど、確かにヒントの可能性は高いな。まあ、詳しいことは話を訊きながら…)

 そう考えながら改めて写真を眺める、が。思わずコナンはぽつりと呟きを漏らした。

「なんだかたまに、変な写真があるね?」

「建物が映ってたり、観光地らしい写真もあるが、特に名所じゃなさそうなところでの写真もいくつか、あるな…」

 更に言うなら、この場所で何故写真を撮ろうとしたのかが謎なくらいだ。風景が綺麗だとか、所謂名所だとか、祭りの様子だとか。そういう印象に残った時に写真を撮ろうと思うだろうし、そういう写真もちゃんとある分、余計に気になる。とりとめのないもの。気になる点が、もうひとつ。

「ところでこの方、何か持ってますなあ。ご当地の土産か何か? それともこういうスタイルが好きだとか?」

 今はSNSも発達し、写真の写り映えを気にする人達も増えてきた。動画のネタで殺人すら起きる時代だ。この伯父という人はそういうアイテムを使って写真のインパクトを強めたいタイプなのかも知れないが、それにしては全部の写真がそういう訳でもない。

「私も不思議なんです。以前はこういうスタイルではなかったですし、それにほら、なにもない素の状態で映ってるものが多いくらいなので、なにか意味があるんじゃないかって」

 覗い見た実咲は柔らかい色の髪を揺らして首を傾げる。それを確認したコナンは目の前の写真の中から、和野が何かを持っている写真だけを視線だけでピックアップして、なるほど、と頷いた。しかしこれだけでは意味がない。謎のパーツの一部分だけが解明されただけだ。だがもう、この状況では判ることはない。目にしているもので判らないのなら、目に見えない部分がヒントなのだろう。

「ねえ、お姉さん。この写真って元々プリントされてたの?」

 無邪気を装って実咲に尋ねれば、穏やかな性格なのだろう、にこやかに答えてくれる。

「いいえ。毛利さんに見て頂くのに、前もってお店でプリントしておいたの」

「じゃあ、元はデータなの?」

「そう。タブレットの方で見てみる? 拡大出来るし、こっちの方が便利だったかも知れないね」

 そう言って自分のトートバッグから八インチ程度のタブレットを取り出して見せるのを、コナンは首を振る。

「小五郎のおじさんのパソコンの方が嬉しいなー!」

「大きな画面で見たいの? 良いよ」

「量が多いのに面倒なこと言ってゴメンね、お姉さん。あっ、おじさんが何か持って映ってる写真だけで良いからね!」

「判ったわ。小さな子の柔らかい頭で考えて貰うのも良いかも知れないしね」

 うふふとやわらかく笑って、タブレットを操作し始めた。それを見て、コナンは小走りに小五郎の机に駆け寄って、机の上に置かれたノートPCの電源を入れに行く。

(まあ、オレが見たいのは位置情報なんだけどな)

 内心でそう答えながら、毛利探偵事務所のメールアドレス宛に添付で送られてくる写真を、PCに保存していく。   スマホやデジカメで写真を撮ると、『Exif』《イグジフ》と呼ばれる、撮影日時やスマホやカメラの機種名、撮影時の設定など写真についてのデータが自動で付加される。更にGPSがオンになっていれば、Exifの中に撮影場所の座標、つまり位置情報が追加されるのだ。

 小五郎はプリントされた写真を見て唸り、依頼人がタブレットで写真を見ている間に、コナンはPCで写真を開いてExif情報を確認した。ビンゴだ。GPSの部分に緯度、経度、高度の情報がある。読み取った位置情報をマップにピン止めしてくれるソフトを使って、全て表示してみた。

(この人が写真を撮った場所は判ったが…全部の場所に行け、ってことか?)

 一瞬その可能性を考えて、最後の手段として頭の隅にメモしておく。もしかしたら撮影地でしか判らないことがあるかも知れないが、各地への移動だけで最低でも一ヶ月はかかってしまう。とりあえず、今はこの場でできる限りの推理をしよう。

 重要なのはマップに登録した位置情報の順番だろう、と思ったところで、突然。

「へえ。コナンくんはゲーム以外でもパソコンを使うの、得意なんだね」

 耳元で囁く声がして、コナンの体は椅子の上でぴょんとうさぎのように跳ねた。その拍子に椅子からずり落ちそうになりながら、咄嗟に囁かれた耳を押さえそちらを勢いよく振り向く。

 そこに居たのは、連休の始めに『はくちょう』を使ったIoTテロ事件にともに立ち向かったゼロ、もとい階下の喫茶店アルバイト店員自称小五郎の弟子の、安室 透だった。

 さっきまで居なかった安室の登場に、驚きのあまりばくばくと胸の内側で暴れている心臓を服の上から押さえながら声を上げる。

「っあ、安室さん!? いつ来たの!?」

 事務所の年季の入った灯りとはいえ、その色素の薄い髪を惜しげもなくきらめかせて爽やかに、かつ謎めいて胡散臭く微笑んでいる。顔はいいのにその辺が非常に残念だなあとコナンは常々思っているのだが、JK達には好評らしい。コナンには女心はわからぬ。しかし謎の気配には人一倍敏感なのであった。

「ついさっきだよ。蘭さんが不在だから、コーヒーの配達に来たんだ」

 応接テーブルの方を見れば、小五郎と依頼人の前に写真を避けてソーサーに乗ったコーヒーカップが二つ、置かれていた。実咲はカップを手に取りながら、突然現れた褐色肌のイケメンが気になるのか安室をちらちらと見ている。その様子にまた調子のいい挨拶をしたんだろうな、と思いながら、ふう、と息を吐き出した。

 全く、この人が行動するときはいつも、心臓に悪い。

 いつも自由な人だけど、今日はちゃんと仕事をしているらしい。それもそうだ。場所を変更してのサミット自体も終わり、事件の後始末も大分落ち着いて、そろそろまともに仕事しないとポアロをクビになってしまう。いくら潜入しているだけとはいえ、バイトをクビになるなんてさすがに体裁が悪いだろう。

 怪我を押してまでポアロに出勤していることに関しては、少し思うところはあるのだけれど。

「…気配を消して、傍に立つのやめてくれない?」

「まさか、普通に近付いたよ。集中すると無防備になるね、君は」

 ぐ、と言葉に詰まる。まさにそれでこうして体が小さくなっているのだから、言い訳のしようがない。悔しくなって、再びPCの画面を覗き込もうと屈んでくる安室を睨みながらふてくされた声を出した。

「お仕事戻らなくて良いの? 安室さん」

「今日、遅くに依頼人が来ることは聞いていたからね。配達したらもう上がっていいことになってるんだ。それで?」

 相変わらずの用意周到さに呆れていれば、間近の距離で返答を促された。こちらを挑発するような視線を向けている。

「それでって…」

「位置情報の次は、何を見る?」

 とっくに答えは判っているくせに、コナンを試すように訊いてくる。それに誰が大人しく話すもんかよ、という生来の負けず嫌いが反発して、視線を逸らし応接テーブルの方へ顔を向けた。

 どうにも安室に対する猫被りが今更過ぎて、やりづらい。

 あの時、二人は対等だった。

 嘘つきだとか隠さなくてはならないことがあるだとか、そんなことは頭になかった。たとえ正義や信念が違おうとも、命を預けるのに値する共通の目的があったのは確かで、協力し合えば成し得られるという、確固たる信頼への心地よさがそこにはあった。

 それがあった後に、いつもの猫被りはさすがに気恥ずかしい。

 それでも依頼人や小五郎のことを意識して、素っ気なくはあるが辛うじて子供らしく答える。

「……それなら、そろそろおじさんが教えてくれると思うよ」

 写真の謎解明のヒントを与えてから、コナンはこちらの作業に移ったのだ。小五郎も道筋さえ判れば、そう間違った推理はしない。

 撮影地に何かヒントがあるとして、ヒントを預かって貰うにしても預かった人が引っ越すかも知れないし、どこかに埋めて隠すにしても思わぬ土地開発があるかも知れない。色々と問題点がある。だから、和野が撮影地に何かヒントを残す場合は環境が変わらないよう、すぐに遺言状の捜索を始めて貰わなくてはならない。そんなのは、死ぬタイミングを自分でコントロール出来る人間にしか出来ないことだ。それは彼の死因とは違ってしまうので、根本から話が変わってしまう。

「判ったぞ!!」

「本当ですか!?」

「ええ、この写真、和野さんが持っているものを英語にして、それから連想するものがしりとりになっているんです。すると――

 電子辞書片手にぶつぶつ考えていた小五郎が出した大声に、実咲が飛びつく。そうして写真は応接テーブルの上で、ひとつの道を作り上げた。自信満々に推理の結果を披露する名探偵の様子に彼女は感激していたが、ふと小首を傾げる。

「それで、この出来上がった順番に写真を見るとして…、一体どんな意味が…?」

「……それは……」

 そこまでは考えていなかった小五郎がはた、と我に返ったように静かになったところで、コナンが声を掛ける。

「おじさん、それならボクがやっておいたよ!」

 小五郎の机からPC越しに手をひらひら振って注意を引けば、小五郎が勝手に触りやがってと怒りだす。それをいなしながら、Exifの説明をして、位置情報をピン留めしたマップを表示する頃には、小五郎も実咲もPC画面を覗き込んでいる。そこに先程小五郎が推理を披露した通り、写真の順番をルート登録して行った。

「そして、ここに足りないのは和野さん家。これは旅の記録だからね、最初と最後は和野さんの家だと思うよ。そして、ルート表示すると…」

 マウスでかちりとクリックした瞬間、ルートを辿る青い線が一瞬で位置情報を結んで行き、そこに表示されたのはまるで外国のコインにあるような、女性の横顔だった。

「わあ、すごい! ナスカの地上絵みたい! きみ、さすが毛利さんのところにいる子だね!」

 実咲はマップに現れた女性の姿に感激して、コナンへ笑顔を向けてきた。さっきは面倒なことをさせてしまったが、これで相殺されたと思う。えへへと得意げに笑い返していれば、安室がコナンの頭をさらりと撫でながら言う。

「本当に、最近の子供は機械類に強いですよね。大人顔負けに使いこなしてて、驚きます」

 地肌に触れる優しい指の感触に、驚いて思わず声が出るところだった。

 キュラソーによるNOCリスト漏洩を誤魔化してから、会えば相変わらず探り合いはするけれど、互いに秘密は抱えたままでもここまでは信頼出来る人間だ、と判断がついたような、互いの領域に踏み込まれなければ窮地に応えてくれるような、そういう安定感は前々から受けていた。でなければ服部に対し己の素性を黙っていてくれとコナンに暗に示すだけで終わる訳がないし、こちらだって判り易く工藤邸を見張っている彼に、子供達と一緒に車を出してくれなんて頼みはしない。

 ところがあの強引に巻き込んだIoTテロ事件、それにあの決死のドライブ以降彼が『安室 透』のときはわざわざ屈んで視線を合わせるようになったりと、気の所為でなければなんだか以前よりずっと物理的に距離感が近い。いったいどういう思惑なのか。

「ホントですよね! 感心します」

 実咲が安室に満面の笑みで返す間も、くしゃくしゃに撫で回すように動くので、さすがに頭に両手を伸ばし、動き回る安室の手を掴まえて止める。

「やめて! ぐちゃぐちゃになっちゃう」

「ごめんごめん、小さくて丸いし髪が柔らかくて、つい」

「もう、ボクは大尉じゃないんだよ!」

 むくれながら自分の両手で髪を整えていると、その様子を安室と実咲がにこにこと見ていた。この野郎膝の裏でも抓ってやろうか。そう思ったとき、何かに気付いたのか実咲が突然、あっ、と小さく声を上げた。ディスプレイに表示されたマップを見ている。

「これ、よく見たら伯母だわ! 伯父宅の居間にある写真の横顔にシルエットがそっくり! 伯父さんったら、すごい…こんな特技があったなんて」

「ねぇ、その写真、お姉さんが欲しがってるネックレスしてた?」

「ええ。伯母のお気に入りだったみたいで、残ってる大抵の写真ではしてたと思う」

 ふぅん、とコナンは相槌を返してから、改めてマップ上に表示された伯母という女性の横顔を見る。それにもちゃんと、首元にネックレスらしき線が入っていた。トップ部分のつもりなのか、上手い具合に小さな環状道路が噛み合っている。その丸い部分の頂点にあるピン留め、GPS情報を持った写真をもう一度確認した。スウェーデンの住居風建築の建物を背後に写っている写真だ。

「じゃあさ、この日付って何か関係ある?」

 その写真が撮影された日付を尋ねれば、実咲は眉間に皺を寄せ、指でこめかみを押さえて考え出す。

「え…? えっと、ちょっと待って、…えっと、……母に電話してみるね!」

 急ぎ足でソファへと戻り、実咲は自分のトートバッグからスマホを取り出して電話をし始めた。推理の後をやり過ごせた小五郎はすでにソファに戻りコーヒーを飲んでくつろいでいるし、安室はテーブルの端に乱雑にまとめられていた、使われていない写真を封筒に片付けている。彼にはもう依頼人の帰宅時間が見えているのだろう。PCから離れテーブルに近付きながらなんとなく見ていたコナンへと、まるで今気が付きましたよと言わんばかりの動作で顔を上げ、にっこりとポアロでの接客中かのように笑ってみせる。

(オイオイ、そんなにオレに愛想良くしたって、赤井さんに関しては絶対何も話さねーぞ)

 訝しんで彼を見詰め返していれば、電話を終えた実咲がスマホを仕舞い、小五郎へ言った。

「伯父の結婚記念日だそうです!」

 その答えを聞いて、コナンもにっこりと母親譲りの笑顔をして該当の写真を手に取って見せる。

「だったら、そのネックレスだけはここにあるんじゃないかなあ? って、小五郎のおじさんもきっと、そう思ってるよね!」

 写真の中の、スウェーデンの住居風建築の建物を指さしながら、そう言った。

* * *

「おはようございます、毛利先生!」

 早速依頼を受けた翌日の土曜の朝、車で依頼人と共に午前中の時間を掛けてネックレスがあるだろう場所へと赴けば、目的地には何故か、白いRX-7のその姿が当然のごとくあった。

 ネイビーのテーラードジャケットを着て、インナーに白いカットソーとグレーの九分丈パンツ、そしてブラウンのスエードシューズ。安室の突然の登場に小五郎は驚いた声を上げ、依頼人は車から颯爽と降りてきた、アッシュブロンドを皐月の緑も芳しい太陽の光にきらきら透かしてなびかせる、王子様のような長身イケメンの登場に、きゃあ、とポアロでの女子高生達のような声を上げている。

「時間が合いましたので、ぜひご一緒させて頂きたいと思いまして。車をメンテナンスに出していたので運転手になれず、すみません」

「別にいいが、今回はもう見るようなモンは特にないぞ?」

「いえいえ、どんなことでも勉強になりますから!」

 単なるネックレス捜索で安室が関わるような案件ではないはずなのに、相変わらず如才ないことを言っている。

 そんなことより。

 サイドミラーを失った状態で建設中のビルから飛び出した時にはフロント部分から火が出ていて、結果的に乗り捨てることになり、地上に落下して大破していたはずのRX-7が奇跡の復活を果たしている。あの失われたサイドミラーさえ、元通りだ。

(嘘だろ!?)

 コナンは思わずその白い車の周りをぐるぐる回って確認してしまった。どこに出しても恥ずかしくない、真っ白な純潔そのままの、滑らかなつるつるの流線形がつい触りたくなるほど美しい。

「ね、ねぇねぇ安室さん、この車って…」

 コナンの顔が映り込むつやつやした車体を前に安室を見上げれば、秘密、とでもいうように立てた指を口元に持っていく。それに頷き返せば、安室はくすりと柔らかく微笑む。

「やっと戻ってきたんだ。今日が慣らし運転みたいなものさ」

 その口ぶりに買い換えではなく修理で何とかなったことを察してただ、驚く。今では生産されていない車、修理でももっと時間が掛かりそうだと思うが、そこは権限でどうにかしたのだろうか。協力者に整備業者もいるだろうし。もしかしたら未だその左腕にあるだろう、本人の怪我の完治よりも早い。

 そもそも警察が使うのは公用車のはずだ。まさかこのRX-7もそうなのか。

 公安のエース級エージェントにもなれば協力者も有名人や要人、彼らから信頼と情報を得たければそれに相応しい車でなければならない、と、優作から聞いたことがある。工藤家に強引に訪れた宅配業者と相対してから、優作は自分の持つ公安の知識をコナンへと授けてくれた。優秀なエージェントは協力者から車を贈られることもあるらしい。安室だって今まで実績を作っているはずだから、このFDが安室専用の公用車と言われてももう驚かない。

 そこまで考えて、彼がNOCと疑われていたことを思い出した。なるほど、安室やバーボンの車が無事でないと、組織の人間に怪しまれてしまうのか。

 昨日の時点で依頼に付いて来るとは言ってなかったのに、今日になって小五郎と合流したのはこの車が戻ってきたからか。そこまでして合流する必要があるのか。訊いてもいいのかと迷っていれば、何故だか安室に自然な動作で右手を掴まれた。

「さあ行こうか、小さな名探偵。解明までが推理だろう?」

「え?」

 解明までが推理なのは同意するが、手を繋ぐ必要が全くない。軽く振っても手を離してくれないので、散歩を嫌がる犬のように全体重を掛けるが、十八キロなどものともせず、安室はすいすい歩き出す。

「安室さん、離してよー!」

「おう、悪いがそのまま掴まえといてくれ。そのガキ放っとくとすーぐどっか行っちまうからな」

 小五郎が面倒臭そうな顔で言って、駐車場から建物の正面玄関に向かって歩き出す。それに追いつくと、実咲が二人へと微笑みながら話し掛けて来た。

「ふふ、お二人って仲が良いんですね。こういうの、兄弟弟子って言うんでしょう?」

 兄弟弟子。想定外の言葉の響きに、安室と二人、思わず無言で視線を交わす。

「それで言うなら、ボクの方がお兄ちゃんだからね!」

「はは、そうだね。コナンくんは少年探偵団の子達の面倒もよく見てるし、頼りになるお兄ちゃんだよ」

 思ってもなさそうなことを軽い様子で言ってくるのに、コナンをがっしり掴む忌々しい大人の手を睨み付けながら言う。

「弟はお兄ちゃんの言うこときかないとダメなんだよ。だから手、離して」

「それはダメだ。僕が毛利先生に頼まれたからね」

 にっこりと笑顔を向けたままぐっと繋いだ手が硬くなるのに、ハハ…、と乾いた笑いで返す。

(判ってたけど、この人全然こっちの言うこと聞く気がねぇー…)

 無駄な抵抗は諦めて、大人しく手を繋いだまま小五郎の後を追い、安室と一緒に目的地のスウェーデンの住居風建築の建物へ入る。

 そこは個人経営の美術館だった。事前にアポイントメントを取り付けていた館長と和野は昔からの知り合いらしく、実咲が身分を証明したところ、和野から頼まれて預かっていた荷物を渡してくれた。葬儀にももちろん弔問していたが、事前に預かっている荷物について説明を受けていたため、その時は特に何も話さず、ただお悔やみだけ述べて帰ったらしい。

 渡された荷物は伯母の宝飾品が入っているジュエリーボックスと、実咲とその母親に宛てての手紙で、手紙の方は和野が死ぬ直前、追加で郵送されてきたのだという。

 中には驚くべきことに、宣久の二番目の弟で、会社の専務でもある寛史ひろしの二重帳簿からの横領の疑いについて暴露されていた。会社として調査は進めているが、彼の様子が挙動不審なため、もし自分に異変があった場合は寛史が原因の可能性が高い、とまで書かれていて、これはその人物に遺言状が渡るのは良くないことになりそうだと、焦る依頼人とそのまま和野 宣久邸へと向かったところ。

 見知らぬ男の死体が、小五郎一行を出迎えてくれたわけだ。

 和野邸には遺言状を探すため親戚がほぼ揃っていたが、和野 寛史が怪しいことは先んじて知っていたし、咄嗟の犯行を誤魔化した即興のトリックだったため粗が目立つ、杜撰なものだとコナンは一目で看破した。小五郎の元刑事の勘を信じてもいいだろうし、安室も弟子だと依頼人に自己紹介したはず。小五郎が迷走しそうになったら軌道修正してくれるだろう。

 素早く現場と死体を確認したコナンは、「探検してくるー!」と実に子供らしい飽きっぽさを見せて小五郎から離れ、居間にある、マップに表示されたものと同じ横顔をした依頼人の伯母の写真を見ていた。

 長い黒髪の綺麗な、女性らしい柔らかさの、それでもどこか儚い印象の白い横顔は、きっとすでに病魔に冒されているからだろう。元々持病のある人だったと実咲から聞いていた。その憂いも秘めた横顔は何かを見ている。ふと、写真の視線の先を追うと、別の部屋に続くドアがあった。コナンはドアに向かい、背伸びをしてレバーハンドルに手を伸ばす。

 そこは死体のある部屋とはまた別の応接間のようで、どちらかというと身近な人を通すような、家人の趣味も伝わってくる部屋だった。その奥、ドアの真向かいにあるチェストに、写真立てがこちらを向いた状態で飾ってある。近付いて確認すれば、写真はやはり和野の妻だった。背後を振り返る。…なるほど、そういうことか。

 そうしてコナンは、通報を受けた警察が到着するまで和野邸のあちこちを写真の視線を辿って移動し、最終的にグランドピアノが置いてある部屋に行き着いた。閉め切られたカーテンを透かした陽の光が、ぼんやりと室内を照らしている。和野の妻の趣味だったのだろうか。家人が亡くなって以降掃除が行き渡っていないのだろう、薄く埃が積もったピアノの黒く、艶やかな曲線をコナンは静かに見上げた。

 コナンとしての記憶の中で、炎の中あの人の奏でたピアノの旋律が脳裏に蘇って、しばらく何をするでもなくただ立ち尽くす。

 小さな探偵さん。そう言ってくれたもう一人を思い出したところで頭を軽く振って、意識を今取り掛かっている謎へと向けた。

 さすがにグランドピアノの大屋根を開けるのは難しい。コナンは改めてぐるりと部屋を見回す。壁際のラグの敷かれた二人掛けのソファの隣に、本棚が置いてあった。模様の入ったガラス戸の付いた本棚には、楽譜や音楽関係の本が収納されているだけでなく、そこにも写真が飾られており、どこかのホールらしき場所で花束を手に座る和野 宣久の妻が笑顔で写っている。何人かはヴァイオリンを手に、子供も含む年齢のばらついた数人の男女に囲まれている、とても和やかで楽しそうな写真だった。

 コナンは少し重さのあるカーテンを開けると、ピアノの椅子を抱えて運び、本棚のガラス戸をじっくり眺める。少し乾燥した、空気の中の埃をちかちか弾く春の温度を持つ光が、ガラス戸の模様に紛れてしまう小さな傷越しに、棚に収められている本や楽譜のタイトルの一文字、一部分を照らすのを丁寧に拾っていく。そうして出来た文章から、その名を持つ楽譜を取り出した。

 エルガーの『エニグマ変奏曲』。クラシックに親しんでいればエルガーの行進曲、『威風堂々』はよく耳にするかも知れないが、『エニグマ変奏曲』の場合、なかでも単独で演奏される『ニムロッド』の方が有名だ。

 偶然にも、コナン…新一はその『謎』というタイトルと、タイトルとして偽りなしのエピソードのお陰で記憶していたのだけれど。

 椅子の上に立ったまま、『エニグマ変奏曲』の楽譜をパラパラと手早くめくって確認している最中、楽譜の中に挟まれていた紙が弾みでひらりとソファの下へと落ちてしまった。

「やべ…」

 咄嗟に椅子から飛び降り楽譜を椅子の座面に置いて、ソファの下へ屈み込んで頭を突っ込み、奥の方へ入り込んでいる紙へと手を伸ばす。すると、その近くに何か四角いものが落ちているのを発見した。

(…あれ、スマホだ)

 誰のスマホだろう。ラグの上だったから、落としても音がしなかったのかも知れない。

 落とした紙の反対側に落ちていたスマホをもう片方の手で掴む。そうして格好は悪いがそのままずるずる後退して頭をソファの下から出したとき。

「宝物は見付かったかい?」

「うわああああ!?」

 いきなり背後から、しかも耳元で声がして、びくんと体が跳ねたコナンは驚きのあまり、大声を出しながら手に持っていたものをラグの上に取り落とした。叫ぶコナンの口を大人の手がすっぽりと覆う。

 大きなてのひらに声を抑えられながら、コナンは声の主を振り返った。誰かはとうに判ってるが、二度目ともなれば睨まずにいられようか。自分の顔半分をいとも容易く覆えてしまう男の手を両手で引きはがして、コナンは昨日と同じように声を上げる。

「安室さん、居たの!?」

「うん。さっき、君がこの部屋に入ってくのが見えたからね。警察も来たし、毛利先生の手伝いが終わったから追ってきたんだよ」

「黙ってないで、声掛けてくれれば良いのに!」

(そういうところが嫌なんだよ!)

 ポアロでも思ったが、この人はよく気配を消してコナンを観察している。コナンがなにを見て、なにをするか。そして、その行動によって得られた結果さえも、それはよく観察している。コナンの一挙一動、癖、それこそけして変えられないという耳の形まで、全てを記憶するかのように。もしも似たものをいつかどこかで見かけても、すぐにコナンかどうか気付けるように。

 そういう、違和感に気付くための、警察官らしい観察の仕方だ。

「だってコナンくん、部屋に入ってすぐに見たのがソファの下に頭を突っ込んだ子供の、小さなお尻と短い足だけがもぞもぞ動く様子だったら、ものすごく可愛いくて目が離せないだろう?  ほら、小さな子供がカーテンにくるまってかくれんぼしてるみたいな、あの典型的な、頭隠して尻隠さず」

「ボクのは違うから! れっきとした捜査だからね!」

 自分の尻をそうまじまじと見守られている恥ずかしさで顔を赤くしながら言い募れば、はいはいと笑顔であしらうように返され、 「君がその体に見合わぬ活躍をすることは、この身を持って充分に理解してるよ。けれどもちろん、君が可愛いことに変わりはないけどね」

 ぱちんと星が降ってきそうな、きらきらとしたウィンクをされた。

(くっそこのイケメンイラッとするな…)

 コナンは冷ややかな視線だけを返して、立ち上がりながら取り落としたスマホと紙を拾い上げる。

「それで、なにを見つけたんだい」

 人のことを詮索好きだの何だの言うけれど、安室だって非常に目敏いし、判っているのにコナンの口から言わせようとする。言質を取られているような緊張感が彼との会話にはあった。探り合いをしているのだから仕方がないのかも知れないけれど、そういうことをされると負けず嫌いの血が騒いでしまう。

 ため息を一つ吐いてから、コナンは大人しく片方の手を安室に向けた。

「……誰かのスマホ」

 安室が薄く笑んだまま口を閉ざして続きを促す。口を挟まず表情も変えずコナンの言動を見守ろうとする、ということは興味を示したということだ。スマホ自体にも、これからのコナンの行動にも。

 公安の人間は興味を持ったときほど表情を変えない、というのも優作に聞いた。張り込みの時も、あくまで自然体で居ようとすると。確かに、潜入捜査官が違和感や印象を覚えられるのは致命的だ。

 さいわいにも顔認識や指紋認証をするタイプではないようだ。電源ボタンを押して画面を明るくさせる。ロック画面に切り替わり、時計と今日の日付が表示された。

「充電は…結構ギリギリだ。今日この家に来てる誰かの落とし物の可能性が高いね」

 きっと遺言状を探す時に下まで覗いて、その拍子で落とし、滑ってソファの奥まで入ってしまったのだろう。よくあることだ、と自分のポケットへ預かっておこうとしたコナンのつむじに、安室の声が落ちてくる。

「コナンくんはさっき居なかったから知らないだろうけど、警察が来るまでに、この家にいる人達のスマホは全員分、確認してるんだ。二台持ちでもないなら、スマホを紛失している人間は居ない。そして、アリバイの中でスマホを失くした話をした人もね」

 言葉の意味を理解した瞬間、ポケットに仕舞う手を止め勢いよく顔を上げて安室を見詰める。

「えっ、じゃあこれ、誰の…!?」

「さあ、誰のだろう?」

 死体の持ち物はもちろん確認済みで、そこにもスマホはあった。残るは亡くなった、この邸の主人である和野 宣久だけだが、あの年齢の男性が持つには少しばかり違和感のある、若々しい印象のカバーを付けたスマホだ。

 その時、スマホがマナーモードだったのか、コナンの手の中で震える。メールを受信したらしい。ロック画面に未読件数の通知が表示される。

 仮にもしこれが和野のスマホだとして、彼が死んだのは先月のことで、ニュースにもなったのでその死は関係者の多くに周知されているはずだ。それなのに、今もなお死んだ和野宛てにメールを送る人が居るだろうか。ショップのメールマガジン等かも知れないが、確認したくてもスマホはロックされている。

 スマホのロックを解除するには、専門家の手が要るだろう。ヒントを得ようにも手掛かりがなにもないのだ。

「仕方がないから、これは後で警察に渡すことにするね」

「……それで、その紙はなんだい?」

「これは…」

 コナンの言葉には特に反応しなかった安室が、コナンがもう片方の手に持っている紙の方を指さす。コナンもやっと『エニグマ変奏曲』の楽譜から落ちた紙の方へと意識を向けた。

 手書きの楽譜だ。僅かにインクの擦れた跡がある。タイトルはないが、五線譜の左上にはテンポ指定ではなく『犬のギャロップで!』という注釈書きがあった。

 だが、それよりも。

 音符の並びを目にした瞬間、初めて見るものなのに、頭が自然と記憶の中から勝手に見覚えのある、これと似たものを次々と引き出そうとするのを、止められない。

 そのまま意識がそちらに沈みそうになるのを、安室の呼び掛けが遮る。

「コナンくん?」

「……暗号だよ。音名をアルファベットに置き換えるのは推理小説でも出て来るけど、これは鍵盤の左から順にアルファベットを振り分けてるんだ。解けたら結構簡単だよ。まず一つ目のヒントはここ」

 我に返り一つ大きく息を吐いて、楽譜の五線の左端、ト音記号の隣を指し示す。安室がなるほど、と頷いた。

「#が四つだから、これはホ長調。つまり、音階の最初の音はE4…中央のミ、ということになるね。そしてト音記号はC4より低い音は表記しない」

 ピアノではドはC、ピアノ中央のドは世界基準ではC4に設定されている。ピアノの左端から数えて四番目に来るド、ということだ。ミはEだから、ピアノ中央のミはE4。

「そう。だからこの楽譜のE4が、アルファベットの始まりのAになるんだ」

 コナンは自分の手帳を取り出して、置き換えたアルファベットを書き記していく。ただ、これはこのままでは意味のある文章にはならない。

「二つ目のヒントはほら、ここに『犬のギャロップで!』って書いてあるでしょ?」

「犬…ショパンの『子犬のワルツ』のことかい?」

 安室がちらりと棚の方へ視線を向けながら、音楽の授業で一度は耳にするだろう、有名な曲名を口にする。恐らくその楽譜もそこにあるのだろうが、コナンは首を振った。

「ううん、犬の走り方で一番速いやつのことをギャロップ、って言うんだ。その時の足の順番は、右前足から左前足。右後足から左後足。だから解いて出てきたアルファベットを、前と後ろから、二つずつ交互に拾っていって…」

 " し、よ、さ、い、の … "

「……書斎の隠し抽斗の中、か。これで遺言状を探すヒントは最後かな?」

「隠し抽斗に入ってるのが、書斎にある金庫の番号のヒントを示した暗号じゃなきゃね」

 解けた暗号を読み上げた安室に、コナンは肩をすくめてみせる。

 金庫は一番に疑われるところだから、さすがにないと思いたいが、そう思わせて、やっぱり金庫の可能性も捨てがたい。

 部屋を離れる前に片付けるべく、椅子の上に置いていた『エニグマ変奏曲』の楽譜の、挟まっていただろう場所へ暗号の楽譜を戻そうとしたところで、先に安室が開き癖がついていたページを迎え入れるように開いた。やはりそこは第9変奏の『ニムロッド』のページで、暗号の楽譜にあったインクの擦れがそこにも移っている。

「エルガーの『エニグマ変奏曲』は、残された『大きな謎』が未だ誰にも解けないまま、答えを知る人達は黙ってこの世を去っていった。和野 宣久氏とその妻も、そういう限られた人達だけの謎を楽しんでいたんだろうね」

 依頼人である、船石 実咲は伯父がこういう謎が好きだった、という話はしなかった。ということは、体の弱かった妻のために、外に出なくても楽しめる暗号を作ったり、謎を互いに用意したりして、夫婦二人で日々を楽しく過ごしていたんだろう。遺言状を隠したのはきっと、そんな夫婦の残り香、最後の挨拶だ。こうして家中を回って彼らが過ごしたこれまでの時間を偲んでくれたら。そういうささやかな願いだったはずだ。

 それがここまでこじれてしまうとは、想像もしていなかったに違いない。

「夫婦だけで楽しんでいただろう謎を、『ニムロッド』のページに挟み込むなんて、宣久氏の奥方に向けた気持ちが伝わるようだ」

『ニムロッド』には作曲者エルガーが、己の才能を認めてくれたイェーガーによって得た『癒し』を込めている、と言われているが、イギリスでは戦没者を追悼する式典で王立軍楽隊に必ず演奏される曲でもある。つまり、『追悼』の気持ちに寄り添う曲ということだ。

「二人だけの合図みたいなものも、あったかも知れないね」

 ぱたんと音を立てて楽譜を閉じた安室に、コナンは椅子をピアノの定位置へと戻しながら返す。そのまま開け放っていたカーテンを元のように閉めていれば、安室はいつものように顎に手をやって、ぽつりと呟いた。

「合図…、合図か」

 何か気になるのか、楽譜を戻した棚の前で考え込む安室に特に声は掛けず、コナンは書斎へと向かうべく、その横を通り過ぎようとした。

 瞬間、ぐ、と引っ張られ、足が蹈鞴たたらを踏んで止まる。

――!?」

「酷いな。僕をまた、置いて行くつもりかい?」

 邪魔されたことに振り返れば、安室がコナンの方を見ずに、いつの間にかコナンの腕を掴んでいた。そうしてゆっくりと向けられた笑顔の圧が強い。

「ええー? だって、ボクが次にどこに行くか、安室さんはもう知ってるでしょ?」

(そもそも、言わなくても気配を消してちゃっかり付いてくるつもりだろうに!)

 引きつった笑顔で答えれば、コナンの考えなど察しているだろうに全く響かない様子で、笑んだまま安室は腕を掴んだ手をするりと滑らかに動かし先へと辿って、またもや当たり前のように手を繋いでくる。

 まさかこのまま書斎に行くつもりか。もしかしなくても、さっき小五郎のところにひとり、置いて行ったのを根に持っているのか。コナンは弟弟子が勉強したいというから、小五郎の推理の手伝いを任せただけなので、恨まないで欲しい。

 安室が左手でコナンの右手を繋ぐのは、彼自身が利き手を空けていたいからだろうと思うが、コナンの麻酔銃その他を警戒しているからかも知れない。そもそも、外でもないのだし手は繋がなくていい、はず、だ!

 コナンの据わった視線など気にもせず、おもむろに安室が口を開く。

「ところでコナン君。楽器が上手い人は、違和感への感度がすごいんだって話を知っているかい? 楽器は探偵向きのスキルなのかも知れないな」

「へえー。安室さんも、ギター上手だもんね!」

「加えて君は絶対音感持ちだ。きっと、違和感への感度は他の誰よりも群を抜いて高い。そういうところが、君を類い希なる名探偵にしてしまうのかな」

「んん?」 (オレ、楽器が弾けるとか言ったことあったっけ?)  さすがゼロ、出来ないことなんかないだろうな、と思いながら適当に話を合わせていれば、話の流れが危うくなってきた。そもそも絶対音感のことも安室には言ってないはずだ。

「IoTテロの時も君が頻繁にその名を口にしていた、『日本警察の救世主』と名高い高校生探偵の工藤 新一。彼もヴァイオリンが弾けるんだったね」

「えっ、うん…」

 ぎくりと体が一瞬強張る。蘭に問い詰められたわけじゃないのだ、こんな嘘はもう慣れきっているはず。そう自分に言い聞かせながら、繋いだ手が汗ばまないよう、平常心をコントロールし続ける。誰に訊かれても、この質問の時は緊張してしまう。特に、黒の組織で幹部にまで上り詰めたこの洞察力の高い相手に探られている恐ろしさは、あの赤井への執念、追い詰め方で嫌でも理解している。

「ヴァイオリニストはそれぞれ、痣や、指先が硬くなったり、どこかしらにタコが出来ると聞いたけど…特徴的な弾き癖があるという彼にもまた、タコはあるだろうね。君の指には、どうかな?」

 繋いだ右手、幼い小さな指先やその隙間を、大人の武骨な指が感触を確かめるように、擦り合わせるように動く。そのなんともいえない動きにど、と一度心臓が不穏に跳ねた。

 何故だかは判らない。判らないが、ぎょっとして思わず安室へと視線を向ければ、足を止めた安室もまた、その瞳を細めてコナンを見下ろす。

「たとえばここ、右手の人差し指とかね」

 そう言って、思わせぶりにうっそりと微笑んだ。

 安室が本気をちらりとコナンへ見せたのはあのIoTテロ事件の時くらいだが、今こうやってコナンにわざとらしく見せたのもまた、そういう類いだ。大人の、新一など未だ到達出来ない優作や赤井、それこそベルモットやジンも持つ、実力のある人間が放つ凄味のようなもの。

 こんなものを見せられては、ただでさえ若輩者の、更にいうなら今なんて小さな体の小学生でしかないコナンは、すごすごと尻尾を丸めるしかない。そりゃあ牙を剥く必要がある時はコナンだって噛み付くが、引いておくべき所は素直に引くのが一番だ。

 そもそも、今、安室が一体何に反応したのかが、全く判っていないのだけれど。

 安室の例外は赤井だが、それでも私情を任務よりも上には置かない。私情を挟める余地がないか隙を狙っていることは確かだが、基本的に任務に忠実な人だ。

 端から見て彼が何かに興味を持って探ろうとしている場合、どうするか、どうやるか、を判断するのは安室自身でも、その行動における彼の意思は本来全く関係がない。その行動は彼の任務であり、上司が指示していることだからだ。する、しない、ということを選べない。さらにはそこに黒ずくめの組織の思惑まで入ることもある。だから行動が唐突で脈絡がないように見えるのもあって、いくら安室を探ろうともコナンが彼の目的を推理するのは、よくよく観察していたって難しい。

 先の先を見通すのは公安である安室なら当然の思考で、その彼にコナンが唯一先んじれたのはひとえに優作も含む三人掛かりだったこと、そして彼が赤井のことに関しては自分の感情のコントロールを失いがち、という隙があったからだ。

「ボク、楽器は弾けないから、タコはないかな~」

「そうかい?」

 アハハ…と乾いた笑いを返して今は探り合いをする気がないことを示せば、安室もそれ以上踏み込んでは来なかった。ただ、繋いだ手は離されず、大人の手には持て余すだろうサイズのコナンの手を、それでも壊れ物のようには扱わずぎゅっとしっかり握られる。

 安室こそ、何度も潰れて固くなったであろうタコのある大きな手は、健康的に温かい。

 安室の接触はコナンの理解の及ばないところで不思議と顔を熱くさせたが、頭の冷静な部分は彼がコナンの右手を選んだのは、タコを確かめる為だったのか、と気付いている。

 こうして安室は、コナンのことをまたひとつ、勝手に覚えていく。けれど今は、コナンに、新一に、安室を覚えさせてもいた。

 潜入捜査官がそんなことをしてもいいの。誰かの記憶に残ってもいいの? その問いは、探らないと意思表示したコナンの口から出ることはなかった。

 書斎を出た二人が遺体発見現場に戻れば、そこは事前に安室が手を尽くしたのもあって無事小五郎の推理も済み、犯人が自供しているところだった。

 寛史を内部告発し罪も明らかにする、と糾弾した宣久を恨み、亡くなった当時の捜査上では血圧の薬と形が同じだったため誤って服用した、と考えられていた睡眠作用の強い風邪薬を、敢えて間違えて飲むようにと入れ替え、事故死させるための細工をした、という新事実が発覚したため、小五郎の依頼人である実咲はよりいっそう悲しんだ。

 そして、犯人と共に死体も警察に運ばれたものの、特にこれと言った所持品がなくその場で身元は一切判らなかった。寛史が言うには裏カジノで出会った素性も知らない男で、金遣いの荒い寛史の横領に感づいて纏わり付き、金品を強請ってきたそうだ。今回の遺言状の件もどこで知ったのか捜索を手伝うといって和野邸へ勝手に押し掛け、強引に入り込んできたことに、今後も付きまとわれるのでは、という恐怖から衝動的に殺したのだという。

 まったく、ネックレスの捜索がとんだ結末になってしまった。コナンはふう、と小さなお腹の底から深いため息を吐く。

 とにかく蘭は女子会とかで園子の家へ泊まっていて、不在にしていて良かったかもしれない。今頃、五月いっぱいも保たなかった両親への愚痴を言ったり、買い物とかで憂さを晴らしたりしてるのなら、その方がいい。

 警察の車両が去っていくのを見送りながら、レンタカーの鍵を片手に小五郎がコナンを見下ろす。

「俺は依頼人の船石さんと事情聴取に行かなきゃならねえんだが、コイツを連れてくのはなあ…待ってる間チョロチョロして、また何かに首突っ込まれたらたまんねえし」

 心底面倒臭そうな顔で言われるのに、自業自得とはいえあまりの信用のなさに笑って誤魔化すしか出来ない。実際気になることがあれば後先考えずに突っ走ってしまう自覚はある。

「では、僕が責任持ってお預かりしますよ、毛利先生」

「えっ?」

 さすがに今回は声が出た。安室がコナンを預かるだなんて、いったいどこに? それとも言っているだけで阿笠博士の家まで送ってくれるのか、いや、そのまま隣家の工藤宅に押しかけたらどうしよう。

 焦るコナンのことなど視野にも入れず、大人二人は勝手に話を進めている。

「そうだ、ちょうどよかった。先日探偵の仕事で最近オープンしたスパの一日無料券を頂いたんです。蘭さんが不在ですし、僕はポアロの仕事もあって使うタイミングがないですから、毛利先生どうぞ。帰りはこれでゆっくりしてらしてください」

「ちょっと待って」

「確かに、いつ終わるかどうかも判らねぇし、依頼人を駅まで送ってったらどこか外食にでも行こうかと思ってたから俺は助かるが、大変だろ?」

「いえ、コナンくんは手の掛からない子ですから。先生はどうぞ、疲れを癒してきて下さい」

「ねえ、待ってよ。ボク、それなら阿笠博士のところに、」

 まったくもって、大人はぐいぐいズボンや上着の裾を引っ張る非力な子供のことなんか、気にもしてない。こんなにも困っているというのに、丸っきり動じていない! 「ねえってばー!」

「よし。じゃあ安室くん、スマンがよろしく頼む!」

「お任せ下さい!」

 小五郎に振り切られ、レンタカーに乗り込む姿を追おうとすれば、にこやかに敬礼をする安室に肩を押さえられてしまった。焦る頭の隅で何かが引っかかって、あ、と小さく声を上げる。

 拾ったスマホを小五郎に預けてない。

 待っておじさん、と声を掛けようとした瞬間、ぐっと体が上に持ち上げられた。

「うわっ!?」

「さあコナンくん、君はこっちだ」

 とすんと硬いような柔らかいようなものに体がぶつかり、その拍子に安室の腕に本当に幼い子供のように抱え上げられる。衝撃で閉じていた瞼を開けば視線が合って、もしや今体がぶつかったのは安室の胸か、と自然に置いていた、思ったよりも厚い肩の感触をてのひらに感じながら驚いた。

 鼻に触れるのは、清潔な石鹸の、それでいてどこか果物のような甘酸っぱさのある香り。首の近くだ、顔にだって手が届く。そんな場所をこんなにも容易くコナンに晒してしまうのか、と動揺する気持ちを何とか抑え込んで、慌ててレンタカーを振り返る。

「ああもう、わかったよ! だから…」

 スマホをおっちゃんに、という言葉は、小五郎が運転するレンタカーが依頼人を乗せて発進してしまうエンジン音にかき消されてしまった。レンタカーの後ろ姿を見送る状態のまま安室と共にRX-7に乗り込み、運転席から助手席へと移され、丁寧にシートベルトをされる。

 安室の鮮やかな手付きを呆気にとられながら見守っていたコナンと目が合った安室は、にっこりといつものように胡散臭く微笑んで見せた。

「さて、お昼ごはんも食べ損ねたことだし、リクエストは何でも応えてあげよう。――だから、」

 ステアリングに置いた指先を一度トン、と跳ねさせる。

「さっきのスマホをこちらに寄越してくれないか、コナンくん」

 つい先日、同じような厳しさを持った瞳を見た。

 彼の凍った湖面を思わせる、全てを透かしてしまうかのような薄い色をした瞳が、コナンをじっと見詰めている。その強さを受け止めて、コナンはふ、と軽く首を傾けて苦笑した。

「…そんなことだろうと思ったよ、ゼロの兄ちゃん」

 そうでもなければ、任務以外で彼は、きっと人に触れたりしない。

* * *