3.

 RX-7は太陽が緩やかに落ちようとする、夕方になりかけた高速を走っている。休日だけはあって、車は少し混んでいた。

 米花町に戻るための数時間のドライブだ。問題のスマホは遅くなった昼食を摂るために入った店の駐車場で、車を遮蔽物にして見知らぬ――おそらく公安の刑事だろう男性が落としたものとして渡ってしまった。

 その時コナンは多分、あの男性にとって安室は公安の協力者、という認識だろうな、と安室に手を引かれながら思った。黒ずくめの組織側に警察と関わりがあるのがバレたとき、そういう逃げ道も用意してあるだろう、と考えたのだ。変装して捜査会議に入り込んだベルモット、まるでパルクールのような特殊な訓練と身体能力を持ったキュラソーが有り得ないことを実行してのけただけで、本来なら日本警察の中枢に侵入するなど、一般の犯罪者に軽々しく出来ることではない。

『ゼロ』は公安刑事相手でも姿を易々とは見せないし、けして悟らせない。

 基本的に『ゼロ』からの指示は、公安全体を把握し計画立て、なおかつ『ゼロ』と直結し作業班を運営している警察庁公安総務課から、警視庁の公安各課へ降りてくるものだ。接触する機会もないし、もし接触していたとしても気付けない。何より身内にこそ名乗らないのが公安だと聞く。

 そう考えるとミッションをこなすために付いた作業班とはいえ、番号で管理された協力者を持ち、公安総務課を超え『ゼロ』と直接連絡を取り合える(しかも安室の本名を知っている)風見は、本来命じられるのではなく自分で事件の匂いを嗅ぎ取り調査を開始する役目を持つ、優秀な公安のエースなのだろう。

「先日の東京サミットの時、日下部元検事の引き起こしたIoTテロ事件の方が先に起こったためにそちらが目立ったけれど、実際のところ公安は他の犯罪組織による、各国の代表を狙ったテロや暗殺計画等も幾つか掴んでいた。元々はそちらの警戒をしていたことは知っているだろう」

 そうだ。本来ならサミット中の不測の事態に対応するべく、刑事部、警備部、そして公安は厳しく警戒していた。それが、サミットよりも前にIoTテロ事件が起こってしまった為、会場やスケジュール等大幅に変更になった。狙われた公安の被害は甚大だったにも関わらず世論には責められたが、警戒レベルは格段に上げられたに違いない。

「その中のひとつ、海外からわざわざ日本に潜り込んでいる犯罪組織『HIRAM』は、暗殺計画を確実に実行するために、日本での資金源として取り込んだ宗教団体『アディティ』に囮として騒ぎを起こさせ、その隙に暗殺計画を実行する、はずだった」

 安室のその言葉で、コナンは計画が破綻した大まかな理由を察した。

「IoTテロであちこち街がパニックになってなければ、囮も効果的だったろうね」

 あの最中では、どんな行動をしても無意味だっただろう。あそこまで徹底的にパニックになれば、逆に警備は確固たるものになって隙がなかったはずだ。

「そう。会場の変更もあれば計画は万全とは言い難い上に、便乗するにはIoTテロの被害も大きかった。根本から計画が崩れたのもあって、その暗殺計画自体は僕たちとは別の作業班が無事に阻止して事なきを得たわけだが、トカゲの尻尾切りとでも言おうか、『アディティ』の方は潰したものの、『HIRAM』がほぼ無傷で残ってしまった」

 前方を睨み、『安室』ならけして出さないだろう低い声音で言うのを、コナンはただ、黙って聞く。

「本来なら、徹底的に壊滅させる準備が整うまで、またしばらく捜査官を潜入させたり、情報を集めなくてはならないが…今回は少しばかり、勝手が違ってね」

 トン、とステアリングの上で安室の指が硬い音を立てる。

「ここのところ、ある共通点を持つ拉致監禁事件が多発している」

「拉致監禁? …物騒だね。失踪や誘拐じゃない根拠があるの?」

 誘拐という金や要求を通すための行為を指す言葉ではなく、その人を連れ去ることを目的とした『拉致』という言葉を使うからには、暴力性のある事件ということだ。慎重な言葉選びをする安室が口にするのが珍しいほどの断定。探るように問い掛ければ、安室はちらとコナンへ視線を投げて、苦笑する。

「そう。警察が証拠のない話には付き合わないことは、君も知っての通りさ」

「それは探偵もだよ、安室さん」

 ここぞとばかりにコナンは声を上げる。

 手を繋いだり抱き上げたりと、なんだか人をただ思いつきや勢いで突っ走っていると勘違いしてそうなので、一度言っておかなくては、と思っていたのだ。

「ホームズだって、証拠が揃わなければ推理をしないんだ。

『具体的な証拠が揃わないうちに、論を立てようとするのは大きな間違いだよ。それは判断を歪めるおそれがある』」

『緋色の研究』での一文をそらんじてみせれば、安室も柔らかく視線を合わせ調子を合わせてくれる。

「そうして、仮説と証拠が矛盾しないか、ひとつひとつ確認するんだったね」

「そうだよ。そうして最後に残ったものが、どんなに不可能でも、信じられなくても、それがたったひとつの真実なんだ」

 運転する安室の横顔を見詰めながらそう告げた。それでも安室に関してはまだ謎が多く、確かな真実は未だ見えない。

『はくちょう』の軌道をカジノタワーから逸らしたあと、最後に彼にした質問の、全く想定外だった答えを思い返す。あれで識ったのは事前に防止できなかったとき、安室はコナンと同じく、命よりも大切なものを守る為ならばその手段をコナンよりさらに選ばないということだ。それも、とても欲深く。

 コナンの本気の力、ということは、安室がコナン――新一が、小五郎や蘭に向ける信頼や愛情そのままを欲しがった、ということで、安室は中途半端なものなど必要としていない。百か、ゼロか。そういうことだ。日々弛まず鍛えているだろう、能力の高い彼が協力者に求めるレベルはきっと厳しい。それに応えられるとは思えなくて、だから買いかぶりすぎだよ、とコナンは言ったのだけれど、彼は納得していないだろう。公安は観察するのが仕事だと言うけれど、だからこそ、自分の見極めに自信があるのだ。

 その柔和な雰囲気に騙されそうになるけれど、底知れない恐ろしい男ひとだと思う。人を操り、救えたはずの人を見捨て、時には目的の為に手を汚すこともあるのかも知れない。非情に、冷徹に、躊躇いもなく、けれど後戻り出来る位置で、アゲハ蝶のように光と闇の境目を歩く。

「共通点というのは、最終的な足取りが『アディティ』に行き着く、というところさ。

 教団には『本人の意思で入信している』と言い張られ、本人もその場で同意すれば、警察だけでなく家族だって、手出ししにくい。そこで行き詰まることが度々続いていた」

 一旦洗脳されてしまった人間を、信じている相手から引き離そうとするのは、とても難しいと聞く。しかも家族への不信感も植え付けられているだろうし、説得は困難だろう。だが、『アディティ』は今回瓦解した。自由になれたはずだ。

「――しかし、『アディティ』が潰れた後、今もその半数以上の行方が掴めていない」

「……!」

 コナンは息をのみ、安室の厳しい表情をしたその横顔をとっさに見る。

「数ヶ月前、山中で若い男性の衰弱死した遺体が見つかった。彼は名門大学に在籍する優秀な大学生だったんだが、金銭トラブルに巻き込まれて以来、失踪していた」

 その事件はニュースで耳にした覚えがある。その後の進展について知る方法もなかったから、記憶の片隅に留めておくしか出来なかったが。

 コナンの頭の中で、閃くものがある。

「金銭トラブル……まさか、裏カジノ?」

「正解」

 良くできました、と言わんばかりに目を眇めて安室が淡く微笑む。

 なるほど、今回の事件との繋がりが段々見えてきた。

 怪しいと知らずセミナーに参加して洗脳されたり、またはサークルの飲み会の店がドラッグを混ぜて出すようなところだったり、裏カジノに強引に連れて行かれてハマり、一生返せない金額の借金を背負わされたり。人の集まる大学でそういう罠は、突如起こり得る。

 今回の件においては、『アディティ』に切っ掛けを与えられていたのは間違いないらしい。

「『アディティ』が裏カジノに関わっている、ってこと?」

「裏カジノを経営してるのはまた別の暴力団でね、その暴力団と関係があり資金洗浄に使っているのが『HIRAM』。

『HIRAM』の資金源にされている組織は他にもあるが、『アディティ』は『HIRAM』の手足としても利用されているのさ。『アディティ』は人を集め、『HIRAM』が望むように流していた」

「『アディティ』がやっていた誘拐が、『HIRAM』で拉致監禁に変わってた、ってこと!?」

「そうだ」

 それは宗教ではなくもはや人身売買だ。以前メキシコで、麻薬組織がバスを強奪した学生43人を行方不明にさせた事件のことがコナンの頭を過る。彼らは未だ見付かっていないし、恐らく今後もその行方は判明しないだろう。

 何故、『アディティ』はそこまでいいなりに、と考えるが。

「薬が欲しいから、か」

 最近の反社会的組織の初歩的な資金繰りとして株式投資をよく耳にするが、やはりドラッグの売買が一番簡単で、また手っ取り早い手段でもあるらしい。『HIRAM』は日本でまず、ドラッグの売買をすることで活動の地盤を固めた、ということだろう。そして宗教団体とドラッグは時として密接な場合がある。

「それもあるし、教祖が『HIRAM』から贈られたプレゼントに入れ込んでいたのもある」

「プレゼント?」

「ドレスの似合う、囀りの上手なお人形さ」

「ダメじゃねーか!」

 思わずコナンは小さく拳を作って自分の膝を殴った。ハニートラップにがっちりハマってどうするのだ。もはや完全に『HIRAM』の傀儡になっていたんじゃないか。

「拉致された人間達がどこで、なにをしているのか…そしてなにより生きているのか。それが未だ定かになっていない。一人でも生きて保護さえ出来れば事態は充分に進展する、と公安は考えているんだが…」

 残念ながら今回は、衰弱死体で見付かってしまった。しかも、逃げ出したものの逃亡に気づかれ、衰弱していたからその際に受けた暴行で死んでしまって、山中に遺棄された、というような、おそらく拉致されていた拠点とはかなり違う場所での発見だ。これによって、警察では拉致監禁事件と判断した。

 トン、とまた、安室の指がステアリングを跳ねる。

「『アディティ』と『HIRAM』の両方に関わっていた人間のひとり。それが今回、死体になっていた身元不明のあの男だ」

 そう告げる彼の声音は一瞬震えが走るほど、とても凪いでいた。

 なるほど、コナンが見つけた関係があるかどうかも判らないスマホだろうと、欲しがるだけはある。どんな情報でも欲しいに違いない。

 きっと、あの死体のスマホも今頃は公安預かりになっていることだろうし、まだ他にあるかも知れない手掛かりを見つけるため、和野邸を総浚いする勢いで捜索しているのかも知れない。

「あの男は公安が張っていた人間の中で、一番隙が多くてね。場合によってはこちらのSに出来そうだったんだ。それが、あのIoTテロの時のどさくさで見失って…女のところに姿を見せないと思ったら、金もないだろうに裏カジノに逃げ込んでいたとは…」

 そして人を脅して、更には殺されているなんて。安室のため息が移ったかのように、コナンもふう、と深く息を吐く。

「死んでしまったのは残念だが、彼自身のスマホは手に入った。あとはその中の情報に期待しよう。……君が関われば何か進展があるだろうとは考えていたが、まさかこうなるとはな」

 その言葉に、小五郎のところに依頼が来るように仕向けられたことを察した。どうりで、ネックレスの捜索程度に同行するのは変だと思っていたのだ。

「…船石さんだったのはなぜ?」

「あの裏カジノに出入りする人間のことは、一通り調べたんだ」

 コナンの問いに、ちらりと視線を寄越して安室が言う。この場合安室が、ではなく、本来の担当である公安の捜査員が、ということだろう。

「そこから和野さんの死を不審に思った?」

「寛史が裏カジノに通う頻度や金額を考えれば、自ずとね。聴取の際彼から話を聞ければいい、という程度だったんだが…」

 安室が苦笑する。まさかその寛史が殺人をまた犯すとは考えてなかったのだろう。衝動的な行動の多い男だったようだ。

 確かに、偶然を装いたくても裏カジノの話なんて、簡単には口を開くはずがない。特に寛史は血の繋がった兄を殺す、という犯罪を犯していて、余計に口が固くなっていた。

 だから、コナンが違和感に気付くと読んで関わらせることで、寛史が犯した犯罪を明るみにし、逮捕したところで公安の人間が取り調べで裏カジノのことを聞き出そうとしたのか。

 そんなことより。

「元々は安室さんの担当じゃないんでしょ? なんで安室さんが関わってるの?」

「さあ、何故だろうね」

 にっこりと、いつもの胡散臭い笑顔でいなされた。

 IoTテロ事件で捜査員が減ったから? いや、元々公表しているより公安の人員はずっと多いらしいし、表向き捜査の出来ない『ゼロ』が出てくる必要もない。もしかして、バーボンとしての任務に支障が出ないか確認する必要がある、ということだろうか。

 どんな情報でも黒の組織に関わるものなら、安室は蓄え続ける必要がある。それが黒の組織を瓦解させる即効性の高い武器になるか、それとも今使うべきでなければもみ消し、使うその時まで隠すか、または便乗するか。その裁量は現場の安室の判断で決まる。

 それにしても、傷を癒すいとまも与えられないなんて。

「安室さん、本当に忙しいんだね…」

 しみじみとコナンが言うが、当の本人は小学生に労られたのがおかしかったのか、一瞬虚を突かれたようにきょとんとして、それからいつかのように苦笑のような照れたような、微妙な表情をして見せた。

「君が拾った持ち主不明のスマホも、有意義な情報を与えてくれるといいんだけどな」

 言葉の切れたタイミングで、安室の車は夕焼けに染まる高速の出口へと車線を変え、降りていく。

 安室の車は米花町とは別の町の、休日でごった返すショッピングモールの立体駐車場の中で停まった。着替えを揃えるためだと言って、コナンを車から降ろす。

「えっ、ホントに安室さんの家に泊めてくれるの!?」

「残念、泊まるのは公安が抑えている拠点のひとつだよ。君はイタズラが好きだからね。安室の部屋に、小さな置き土産を大量に残していきそうだし」

「えへへ…」

 盗聴器を仕掛けないとは約束できないので、笑って誤魔化した。そのコナンの頭を軽く指でつついてから、やはり安室は当たり前のように手を繋いでくる。

「安室さーん」

「ショッピングモールと君という組み合わせで、なにも起こらないだなんて、思ってないよね?」

「ボクが事件を起こしてるみたいな言い方やめて!」

 名誉毀損だと繋がれた手を揺らして訴えるけれど、ハイハイと頭を撫でられ軽く流された。それにも不満だと頬を膨らませれば、またもや指先でちょんとつつかれる。

(ペットじゃねぇ、ん、だよ!)

 きりりと眉をつり上げれば、ゴメンゴメンと軽く謝られた。

「君が数学者を目指してなくて本当に良かったよ」

「正解を求めるところは似てるかも知れないね。だけど、ボクが求めるのは最後から二番目だろうと、真実だけだよ。

 それにフィクション、物語の中に限って言うなら、モリアーティ教授のことはそこまで嫌いじゃないんだ」

 助けてくれると思わせて、その狡猾さは流石だったけれど。霧のロンドンでジャック・ザ・リッパーを、寂しい少年が残したAIと共に追い掛けた日のことを思い出しながらそう言えば、見上げた安室はまるで接客中かのような見事な作り笑顔を向けて来る。

「そうだった。君はうそつきだからね」

 しまった、安室を出し抜いた夜のことを当て擦られている。

 あれから安室は決定的な証拠を得るためか、それとも牽制か、工藤邸をあからさまに見張って、沖矢が赤井としてのボロを出す瞬間を待ち構えていることもある。

 ただ、どんな劣悪な環境でも待つのを苦痛に思わないよう訓練を受けている狙撃手の赤井にとって、その張り込みは特に堪えてなさそうなのだけれど。

――でも、数学者でも、四色定理を愛するようなタイプなら?」

 映画にもなった、留置場の煤けた天井に壮大に星座を描くようにして、点と点を結び、色を塗っていく孤独な数学者のことを思い描く。彼はその孤独を救ってくれた隣人母子のために、人生そのもの、何よりも大切にしていた数学を手放すことになっても構わなかった。だって彼の愛する数学では、『隣同士は同じ色になってはならない』のだから。

「愛にすべてを捧げる献身的なところは、君もそうだね。どうやら探偵は准教授でもやれるみたいだけど、君は探偵一筋なのかい?」

 アンタはアルバイトと探偵の二足の草鞋、っていう設定だしな、という言葉を頭の中で呟きつつ、こちらもにっこり笑って返す。

「やだなー安室さん、ヒトの将来を誘導しないで」

 公安の協力者にはそういう、専門知識の高い大学教授などが多い。法医学はその最たるもので、それがなければ検死は成り立たない。そういう専門的な分野に就けると、コナンの将来をも買ってくれているということなのだろうけど、その方向はまだ考えたことがなかった。

「まあ、君の場合は授業をすっぽかして事件の方に行ってしまって、大学をクビになりそうだけど」

「……あはは…」

 否定できない。

 だが、現代数学の公理は集合論。空集合Φ、つまり『ゼロ』の存在を唯一知っている学問だ。

 簡単に下着程度を買うのだろうと思っていたら、何故だか真剣に悩まれて何着か見繕われた。意外に時間が掛かった買い物を終え、夕飯はメニューを特に尋ねられることもなく安室の選別によって服より手早く食材が籠に次々入れられ、清算をすませて辿り着いたRX-7の助手席でため息を深く吐く。

「安室さん、お洒落だもんね。自分の服も拘りありそう」

「いや? 自分の服にそこまで時間は掛けないよ」

「嘘だあ」

 すぐさま否定すれば、大変にこやかな微笑みが返ってきた。どういう返事のつもりなのかさっぱり掴めない。服も嗜好に関わるからか。こんな世間話程度についても気軽に話せないなんて、全く不便なことだ。

 たぶんもうすぐ引き払うのだろう、拠点のひとつだという最低限の家具しかなさそうな1DKアパートの部屋に着いたあと、手早くパジャマのタグを切られて早々にシャワーを勧められる。使用感の全くない浴室から何とか髪まで乾かしたコナンが出てきた時には、夕飯の準備が整っていた。

 コナンが座るにしては二脚しかない単身用ダイニングの椅子もテーブルも合わず、そこは枕をタオルで包んだもので調節して、クッション代わりにする。この部屋は大人しか使わないのだから仕方がないにしても、安室を含む公安の捜査員達はあまり気軽に外食出来ないからか、最低限の調理道具が揃っていることの方が驚きだった。勧められるまま味噌汁を一口飲み、しめじとエビの入ったチンゲン菜の副菜、そしてふわふわの親子丼を小さく箸で掬って口に入れ、そのまま動きを止める。

 なんだこれ旨い。

 ご飯に浸みる、タマネギの甘さを含むつゆの味を閉じ込めたふわふわの卵もだが、なにより鶏肉を噛んだときの、柔らかさと同時に溢れる肉汁がとにかく美味しい。顎が溶けそう。咄嗟に口を押さえ安室を見れば、どうだと言わんばかりの満面の笑みでこちらを見ていた。彼は時々こういう表情かおをするが、爽やかな安室の設定とは微妙に違う気がして、もしかしたらこれは彼の素の部分かも知れない。

 口の中のものを味わってから、コナンはゆっくりとこの夕飯を作り出したシェフへ賛辞を贈った。

「…すごく美味しいよ、安室さん。ボクこんなに美味しい親子丼、初めて食べた」

「お口に合って良かったよ。生憎と、味噌汁はインスタントだけど」

 安室は意外にも、嘘つきからの賛辞をにこやかに受け取る。

 さすがにもうすぐ引き払う場所に味噌を買い込むわけにはいかなかったのだろう。それでも、材料の余りなのかしめじやタマネギ等が追加されていて、料理をし慣れている人はこういう一手間が簡単に出来るよなあ、と素直に感心する。新一だった頃でも不精して、説明書き通りに湯を注ぐまでが精一杯だった。最近はロジカルな料理本が複数出ているので、新一に戻ったらコナンとして身近で見てきた蘭の苦労を労るべく、是非とも購入と実践を積極的に検討したい。

 あとは、自分でも自覚のある指先の不器用さだ。どうにも素早く動かすというのが出来ない。ヴァイオリンを弾くのには問題ないのに、未だにゲーム用コントローラーの指さばきは下手くそで、隠れて練習はしているものの、子供達にはまだまだ及ばない。あの怪盗キッドは許可なくよく新一に変装するが、きっとその逆は出来ないだろう。

 一般の成人男性よりも活発に動く安室は、コナンの倍以上の量をほぼ同じくらいのタイミングで食べ終え、お茶で一息ついた後、コナンを椅子ごと洗面所へ追いやっている間に片付けをして、歯磨きを終えたコナンが椅子を抱えてよたよた戻ってきた頃には、すでに寝室で寝る準備を整えていた。

 食べてすぐではあるけれどこの部屋にはテレビもないし、そろそろ体力が尽きかけていたのでとても有り難い。有り難いけれども。

「…ボク、毛布さえ貸してくれたら床で寝るよ?」

 雑魚寝には慣れているし。シングルベッドの前に立ち尽くし、クッション代わりにしていた枕を腕に抱えたまま安室を見上げれば、ひょいと脇を抱えられてベッドの中央へと降ろされる。

「君はスーツケースに入りそうなサイズだし、洗濯籠の中でも寝られそうだけど、見ての通り、ベッドもひとつで布団も一組だけなんだ。僕もシャワーを浴びてくるから、先に寝ててくれ」

 コナンの頭を軽く撫でて去って行くその背中を、半目で睨み付けた。

 よーし、彼がコナンのことをなんと思っているか、とてもよく、よーく判った。

(オレは、ペットじゃ、ねーんだよ!!)

 大体なんだ、洗濯籠って。猫じゃないんだし、スーツケースにだって進んでは入らない。さすがに。

* * *

 何かの物音で、目が覚めた。

 カーテン越しの光は朝の気配がするもののまだ夜を残して薄暗く、窓の向こう通り過ぎていくバイクの音はもしかしたら、新聞配達かも知れない。では、あの音は新聞が投函された音か。パチパチと何度か瞬きをして、ゆっくりと体を起こす。その動きに従って、体に掛かっていた布団がずり落ちていった。

 昨夜、猫というのならそれらしくベッドの中央を陣取ってやる、と半ばやけくそになって大の字になったところまでは覚えているけれど、そこからの記憶がない。思ったよりすぐ、寝てしまったらしい。

 いつのまにか枕元に充電が終わったサインを出している、コナンのスマホが置いてある。親切に手持ちの充電器を貸してくれたのかも知れないが。

(あんにゃろ、勝手に触るの、もう全然隠さねぇな…!)

 親切心だけとはもう信じてない。これはすでに何かしらのアプリを仕込まれた後だろう。今度は充電が余り減らないものにしてくれたら良いのだけど。念のため、しばらく新一のスマホを阿笠に預けているのは英断だった。

 ベッドを見渡すが、当然のように安室はいない。彼は寝たんだろうか。気配は隣のキッチンの方からしているから、居ることは間違いないけれど。

 引き戸を開けて隣の部屋へ行くと、安室は食事をしたダイニングテーブルで、モバイルサイズのノートPCを触っていた。Tシャツにジーンズと、昨日とは服装が違うから、きっとコナンが寝ている間にデータを受け取ったのだろう。

「おはよう、コナンくん。まだ随分早いけど、もう起きていいの?」

「うん。おはよう、安室さん。安室さんはちゃんと寝た?」

「寝たよ」

 にっこりと向けられた笑顔で、捜査のためにコナンが寝ているのを確認してすぐに部屋を出ていたのだろう、と察する。最初からそのつもりだったんだろう。ついて行けなかった子供の体力が悔しい。

 少しばかりむくれたコナンがトイレや身支度を調えて戻っても作業を止めないので、興味を引かれて近づけば、安室に手を引かれ膝の上に座らされる。PCの正面だが、コナンの足りない座高を補うものが無い状態での苦肉の策といったところか。テーブルの上に置かれていた未開封のペットボトルの水を渡されて、安室を振り返りつつ見上げて問う。

「ボクに見せて良いの?」

「このPCはサブ機なんだ」

 なるほど、見せても構わない情報しか入ってない、ということか。トリプルフェイスを使い分けている男だ、PCだって役柄に合わせて変えるものだろう。サブ機と言っているけれど、『誰の』サブ機なのやら。

 USBのフラッシュメモリが刺さったノートPCには、コナンが発見したスマホの番号から割り出した持ち主の情報と共に、スマホの中身が丸ごと表示されていた。

 死体で発見された男のスマホのデータはこのノートPCにはなく、安室もコナンへ情報を流すつもりはないらしいが、この持ち主不明のスマホに関してはまだ公安と関連があるとは判明していないからか、幾つか情報を開示してくれるようだった。

 まずは持ち主の情報を素早くスクロールしながら読み進めた安室が、概要を教えてくれる。残念ながら操作まではさせてくれない。

 持ち主は笹島ささじま 佑典ゆうすけ、理系で名高い私立大学に通う四年生。両親は離婚、母親に引き取られたものの母親は再婚、その時に彼を連れて行かなかった。祖父母に引き取られたものの、数年前に祖父も亡くなっている。

「……彼も、失踪者として届け出が出ている。和野氏が亡くなる数日前に自宅に戻らなかったので、翌日には捜索願が出された。彼には失踪する際の私生活にも問題はなく、『アディティ』や他のなんらかの犯罪組織とも関わりがなかったから、今までノーマークだった」

「その人のスマホが和野さんの家に落ちてた、ってことは…和野さんの家で失踪した、ってこと…?」

 画面に表示されている彼の写真を含む情報を素早く読み進める安室は答えない。その横顔から視線を外してコナンは考え込む。

 もちろん別の場所で誘拐、もしくは失踪し、その際に笹島のスマホを入手した誰かが和野邸で落とした、というのもあるかも知れないが、ではその誘拐した犯人は一体誰で、何故わざわざ和野邸でスマホを落としたのか、を考えるのは、『アディティ』を始め犯罪組織と関わりがない笹島では現実的ではない気がする。

 それより、和野邸で何かがあって失踪した、と考えるのが自然だろう。

 和野邸で失踪したとして、それが自発的でなければ誰かに誘拐された、ということになるが、一体誰に? 何の目的で? そもそも、和野とは一体どういう関係なのか。

 だめだ、まだ判らないことが多すぎて、推理に入れない。コナンはひとつ頭を振って、思考を切り替え画面に映る文字を追う。

「そういえば。そのスマホ、メールが来てたと思うんだけど…」

「ああ、待ってくれ」

 メールのやり取りは少ない。一般的に大抵の人はメジャーなメッセージアプリを使っているからだ。そちらの方はまた後で調べるとして、今はあのスマホを起動したとき受信していたメールの方を確認する。

 直近で届いているメールが幾つかあるが、そのどれもが同じアドレスのようだ。連絡先が登録されていないのだろう、登録名表示のないむき出しの英数字の羅列が表示されている。

 届いているメールには、何を伝えようとしたのか判らないような、ブレていたり壁のようなものの写真が添付されているものや、本文に意味不明の文字列、またはなにも本文が書かれていないものもあったが、ひとつ、失踪して一番最初に送られたメールには、件名が設定されていた。

「♭が五つ…?」

『♭♭♭♭|♭』という件名のメールを開いてみれば、英数字の羅列が本文に並んでいる。全く意味のない文字列のように見えるが、最後に挟まれた『|』は一体何のことだ。

「…誰がこのメールを送ってきたか、なんだけど…安室さん達はもう、知ってるんじゃないの?」

 メールの暗号をスマホで撮りながら顔を上げて安室を見れば、小五郎に追従する時のような、にっこりと胡散臭い笑みを返してきた。

「死人からのメールだよ」

「えっ!?」

「そのメールアドレスの持ち主は、和野邸で死んでいたあの男だという、報告を受けている」

「はぁ!?」

 スマホ自体は違法で手に入れたものだろうし身元の特定は出来ないだろうが、Sにしようとしていた、というのなら、接触した公安の捜査員がいて、連絡先としてメールアドレスを手に入れていたのだろう。だが。

「あの死体、スマホを持ってたよね?」

「ああ。だが、ああいう人間なら足が付かないよう、大抵スマホは二、三台持っているからね」

 まさに潜入捜査官として幾つも連絡先を持ってそうな男が言い、それから何かを含んだ笑みを見せてくる。それにコナンはへへ、と軽く笑って視線を避けた。IoTテロの時、タイミングを合わせるため新一の白いスマホを安室に差し出したことを後から思い返し、盗聴されていたことも併せて自分の正体が知られたのではないか、という懸念があれからコナンの頭の隅に引っ掛かっている。

 その件は鎌を掛けられる危険性から確かめるわけにもいかず、今のところは後回しにして、正面へと視線を戻すと、ノートPCの画面に映し出された資料の文章を目で追いつつ、顎に手をやり考え込んだ。

「笹島さんは『失踪』する前、犯罪などというものにはまるきり無縁なほど、全く関わりがなかった。それなら、あの死んでいた男が自分のスマホから、笹島さんのスマホに何度もこんな意味不明なメールを送る理由、繋がりが今のところない」

「そして、死んだ後も送り続けることも」

 鋭い視線の安室の言葉に頷いてから、そのまま続けた。

「だからこれは、スマホを失くした笹島さんが、自分のスマホにメールを送ってる、と考える方が妥当だと思う」

「あの男のスマホを使って?」

「そう。あの死んでた人、確か和野さんの家に勝手に入り込んでたんじゃなかった?」

「和野 寛史はそう言っていたな…それなら、以前から家主の留守中に、窃盗目的で屋敷に入り込んでいる可能性もある。家政婦は週二回、主に掃除をしに来ていたくらいらしいし…つまり、その際にあの男はスマホを落とし、それを笹島さんが拾ったと? そしてその代わりに、笹島さんが自分のスマホを落としたということかい?  だが、亡くなった和野 宣久と笹島 佑典はどういう関係なのか…」

 安室もいつものように顔に手を当て考え込むが、コナンはすでにひとつの推測を持っていた。

「もしかしたら。スマホの落ちてたピアノ部屋、あそこの本棚に飾ってあった写真の中の誰かかも? だって、あの暗号、楽譜が読めないと解けないし。

 多分、病気が酷くなったか、何かの理由で音楽教室を辞めるまでは、奥さんはピアノを習ってて、元気なときは発表会に出てたりしたんだと思う。あれはその記念写真じゃないかな。写ってる人の年齢がバラバラだったし、ヴァイオリン持ってる人も居た」

 コナンの言葉に、安室がちらり、と意味深な視線を寄越してくる。

「……二人には子供が居なかったし、もしかしたら、奥さんが音楽教室を辞めた後も、笹島さんは和野邸にお見舞いに通っていたのかも知れない」

 笹島は子供心に、和野夫妻にほのかな両親の憧憬を持っていたのかも知れない。子供を望めない夫婦と、両親の愛を知らない子供が、束の間の夢を見たのだ。そのことを誰も責められはしない。その時欲しい慰めを与えてくれた人を、どうして無碍に出来ようか。

 そうして笹島が大学生になった現在も、妻を亡くした和野へ、頻繁に顔を見せるような関係を続けているとしたら。

――もし、その時和野さんの家で、笹島さんと殺された人、二人が鉢合わせしてたとしたら?」

 静かに安室と顔を見合わせた先で、彼はゆっくりと見せつけるように口の端を撓らせた。

「恐らく金品目的で侵入したあの男は、焦っただろうね。でもあの男に殺しが出来るほどの度胸は確かになかった」

 そんな度胸があったなら、公安がSに取り込もうと考えるような隙など簡単に見せはしないだろう。狡賢く、金と女にだらしなく、弱者と決めつけた相手を嗜虐して悦に浸る歪んだ性癖を持っているが、暴力だって自分では振るいたくない。そういう男だという。

「笹島さんは侵入者を捕まえようとするだろうし、あの殺された人は逃げようとして、揉み合いにはなるだろうね。その時に二人とも、スマホを落とした」

「その後、笹島さんを何らかの手段で気絶させ、屋敷の外へ運び出し、『アディティ』に始末させるため引き渡す」

「運び出される時、笹島さんは咄嗟に手近にあったスマホを拾い、隠し持った可能性が高い。――じゃないと、こうやって死人のスマホからメールを送ってくることは難しいからね」

 拉致されたときに取り上げられてしまわないよう、どのようにか隙を突いて隠し通したのだ。ロックを解除出来た方法は判らないがこれだけ機転が利くのを見るに、彼はきっと観察する能力が高いのだろう。

「遺言状を隠した本当の理由は、和野氏には、血縁以外に遺産を渡したい人物…、つまり、笹島さんが居たということか」

 相続税が通常より二割ほど高くなるが、血縁関係にない人物にも遺産は渡せる。和野の弁護士がOKを出していたのだから、法律的にはクリアしているはずだ。そして、和野が遺産を親族からのゴリ押しで奪われないよう少しでも多く渡したい、と思っている相手がもしこの、笹島 佑典だとしたら。

「笹島さんが多くお金を貰えることを知って、誰かが誘拐した…?」

「いや、それは遺言状を見付けないと判らないことだし、その場合遺言状を見付けている時点で勝ちだろう。そもそも、笹島さんが失踪したのは和野氏が生存している時だよ。その時点では遺言状の意味がない」

 安室の指摘に、コナンも同意して頷く。

「そだね…」

「ただ、ひとつはっきりしたね。あの謎だった遺言状の意味は、多分、これだろう」

 そもそもあの隠された遺言状を見付けるには、不特定とは思えない、不自然な点がいくつかあった。

 1. PCの操作に慣れている

 2. 音楽、または楽譜の知識がある

 3. 和野夫妻のことに詳しい

 4. 和野夫婦が作った謎や暗号に慣れているか、コナン達のように詳しい

 5. 和野邸のことを細部までよく知っている

 以上の条件をすべて満たす必要がある。幾つかは可能かも知れないが、すべてを満たす人間はそう、いないだろう。

 実は和野邸の書斎でコナンと安室の二人は無事、遺言状を発見した。

 一応中を確認したところ、遺言状とは別に特定の誰かを想定したような書き方の手紙が入っていて、その人物が見付けることを疑っていないような内容に、そのまま実咲に渡して良いものか迷った二人は、とりあえず遺言状の隠し場所は判明した上に、当初のネックレスを手に入れる、という依頼はこなしているのだから、と、遺言状はそのままにして書斎を出てきたのだ。

 該当の人物が親戚の中の誰かは判らないが、突然現れた死体の所為で遺言状どころではないだろうし、という判断をして。だが、後から考えても、親戚の人間達のどれにも該当するようには思えなかった。

「あの手紙は、笹島さんに向けて書かれてたんだよ。笹島さんなら見つけてくれる、っていう確証があったんだ。ということは…和野さんもこの人が失踪してたことは、知らない…?」

「笹島さんが祖母に和野さんの家に行くことを告げていれば、捜索届けを出したときに祖母は警察に言うはずだ。それならば和野邸を中心に捜索も行われたかも知れないが…そんな報告がないことから、祖母には言う習慣がなかったとみるべきだろうね」

「頻繁に通ってるはずなのに捜査の手掛かりにも和野さんの名前が出てない、ということは、笹島さんの祖母は、和野さんとの交流を認めてなかったのかも」

 息を継ぐ間もなく言葉を交わしていたが、そこではたり、と言葉が止まる。そうして二人はゆっくりと視線を交わした。安室の透き通った瞳の彩がコナンへと向けられ、そこに映った自分を見た気がした。なんだか気恥ずかしい気持ちになって視線を落とす。そのままぽつりと呟いた。

「じゃあ、和野さんは笹島さんの失踪を知らないまま、亡くなったんだ…」

 俯いたコナンの頭にぽん、と大人の大きな手のひらを置かれ、慰めるかのように軽く撫でられる。頭頂部のくせ毛をからかうようにちょいと摘まむので、昨日からのペット扱いの不満を瞳に込めて顔を上げれば、彼は淡い笑みを湛えてコナンを見詰めていた。

 そしてコナンが口を開く前に、朝ご飯にしよう、とコナンごと席を立った。

  「♭五つは変ニ長調、音階の最初の音はD4、つまりレの♭…黒鍵から?」

 和野邸で見付けた暗号では、白鍵しか使わなかった。同じような暗号とは限らないが、黒鍵から順番に白鍵と混ぜ合わせて行くのか、それとも黒鍵と白鍵は別に考えるのか。

 安室が用意してくれたオムレツを頬張りながら考えていると、向かいに座る安室が徐に手を伸ばしてきて、コナンの口元を指で拭っていく。

 それは安室にしてはちょっと力強くどこか大雑把な男らしい加減で、日頃の丁寧さとの差、コナンにとっては全く覚えのない感触に、ぞわわと背筋を走った何かが小さな胸の内側でぴょんと跳ねて、思わず肩を竦めてしまった。

「しっかりしてる君にしてはちょっと不思議なんだけど、まるで自分の口のサイズが判ってないみたいな食べ方をするね?」

 蘭さんに口元を拭って貰ってるのをよく見るよ、と言われるのにうぐ、と詰まる。

 そりゃそうだ、どこかのトリプルフェイスと違ってこちらはサイズ自体が違うから、その辺の認識がずれていたりするのだ。こうやって食べ方が拙くなったり、かと思うと工藤 新一では問題ないサイズのパンを食べるのにいちいち細かく千切って食べてしまったり、コナンなら問題ない場所で頭をぶつけてしまったり、つい新一の姿で『蘭姉ちゃん』と呼びかけてしまったり、そりゃあもう苦労している。多少口元がおろそかになっても突っ込まず、子供だと思って見逃して欲しい。

 えへへー、と笑って誤魔化しながらお礼を言えば、安室はさらりとなんでもない動作で拭った指を舐めていた。安室はしないだろう、非常に男らしい仕草で唇から覗いた舌のちろりとした動きが艶めかしい。思わずひえ、と声が漏れてしまう。

 ――素、だ。

 今のは、安室 透じゃない、本来の彼の癖だ。病院で『ゼロ』の言葉に反応した時もそうだが、彼ほどの人でもやはり癖はどうしたって出てしまう。こういう隙間に、ちょっとした不調法さで。

 驚きと、感動と、背筋を擽られるような感じを覚えながら彼を見詰めていれば、離れた場所に置いたノートPCから通知音のチャイムが聞こえて来た。すぐさま立ち上がろうとするコナンを食事を続けるように言って抑え、安室は席を立ち確認に向かう。

「どうしたの?」

「笹島のスマホに新しいメールが来たみたいだ」

「えっ!?」

 そういえば、このノートPCはエミュレーターで笹島のスマホと同期しているんだった。慌てて残った食事を詰め込み、高さを嵩ましした椅子から飛び降りようとする前に、安室はノートPCを持ってくる。

 メールを開けば画像がひとつ、表示される。

「ただの真っ黒な画像…」

 呟きながら二人は互いに視線を合わせ、同時に声を上げた。

「Exif情報だ!」

「他のメールの画像もそうか!」

 スマホに届いている画像付きメールの数は多くはない。写真を撮る行為は非常に危険だが、殺された男のスマホなら、シャッター音を消す細工がしてあってもおかしくはないだろう。万が一のフラッシュに備えてポケットの中で撮影したから真っ黒な写真になったのかも知れない。

「充電が良く保ってるな…!」

「多分もうギリギリだと思う」

 Exif情報を元にマップにピン留めしていくと、どれも同じ場所ではないが、少し離れた県の大まかな場所が割り出される。その情報を手早く安室はどこかに送り、コナンはマップを扱いその周辺について知識を得ていきながら、口を開く。

「笹島さんは自分でなければロック解除が出来ないスマホに、暗号のメールを送っていることになるけれど、たとえば、和野さんはロック解除が出来たのかもしれない」

「確かに…あのスマホのロックは指紋認証と、PINコード、どちらかで良いようになっていたね。PINコードなら他人でも解除出来る」

「暗号なのは、送信する際に誰かに見られては困るから」

 笹島は『失踪』しているのだ。見られて困る相手など、ひとつしかない。加害者、笹島を拉致している側の人間たちだ。

 そこまで思考した瞬間に、頭の奥をぱちんと光るものが走って、口から言葉が零れる。

「助けないと!」

 言葉にした途端、焦りが頭を占めて堰を切ったように言葉を継ぐ。咄嗟に安室の腕を掴んで引き寄せ、言い募った。

「笹島さんは和野さんに助けて欲しくて、必死にこのメッセージを送って来てるんだ!! もしかしたら、もう…危ないかも知れない…!」

「どうしたんだ、落ち着いてコナンくん。彼が何処にいるかなんて、まだ…」

 いきなり様子が変わり、早口にまくし立てるコナンの様子に、戸惑った様子だった安室が宥めようと口を開いて、はっ、と止まる。掴まれていた腕を振り払い逆にコナンの肩を掴むと鋭い視線と同じく、硬い声音をコナンに投げ掛けた。

「判ったのか」

 薄氷の瞳が覗き込むその問いに、コナンはただ、無言で視線を返す。ここでコナンの考えを言ったが最後、あっけなく置いて行かれるだろう。

 そんなのはごめんだ。

 ここまで来て、利用されるだけされて、それですごすごと尻尾を巻いて帰ることなど出来るはずがない。そんなものは探偵ではない。

 口を固く結び、まなじりをきりりと上げ、顎を引き、安室をただ見詰めた。しばしの沈黙が二人の間に流れ、コナンはゆっくりと口を開く。

「ボクの推理が聞きたいなら、連れて行って」

「…それは…」

「じゃあ、勝手に行ってもいいの? あなた達が今まで地道に苦労を重ねてきた捜査を、ボクみたいな子供が好き勝手に荒らすなんて、許せないよね?」

 躊躇う安室へはっきりと告げれば、彼は訝しむ様子で掴んでいた腕を放し、いつものように顎に手をやって、コナンの真意を見定めるようにじっと見下ろす。

「なぜ、君が何の面識もない彼に、そこまでする?」

「これは死んでしまった和野さんの代わりに、ボクが受けた依頼だからだよ、安室さん」

「依頼だって? 君は勝手にこのメッセージに気付いただけだ。彼に直接頼まれたわけじゃない」

(頼まれただって?)

 思わず聞き返すところだった。何を馬鹿なことを。この江戸川 コナンの、工藤 新一の前に事件があるのだ。そんな悠長なことを言ってられるはずがない。

「いいや、安室さん」

 一度瞼を閉じゆっくりと首を振って目を開くと、安室と名乗る彼をひたと見据え、言い聞かせるような低い声音で言葉を発する。

 よく聞いて、覚えて欲しい。一体誰を協力者として使ったのか、それが一体どういうことなのかを。

「このメッセージをボクが、『探偵』であるオレが気付いたのなら。もうそういうことなんだ」

 何があっても真実を求めるし、助けを求める人をけして死なせはしない。

 その探偵としての在り方に、大切な存在のためだとか、そういうのは関係がない。すべての探偵が大切な存在のためだけに行動するとでも考えているのなら、それは大間違いだ。

 IoTテロで小五郎が逮捕された時のようにコナンの鋭い視線と対峙した安室は、あの時と違ってまともに受け止めた。彼は言葉もなく目を瞠り、そして息を呑む。

「君は……」

 彼は震える喉で小さく呟いて、額に手をやるとゆるりとかぶりを振る。そうして僅かの間背けていた顔をコナンに向けたときには、いつもの貌をしていた。

「待ってくれ。本当に君の智慧を借りたいだけで、現場に連れて行くつもりがなかったんだ。だからすぐには返答が出来ない。それは分かってくれるだろう?」

 しぶしぶ頷いて返せば、安室はスマホを取り出し洗面所の方へ移動していった。その間にコナンは荷物をまとめ、すぐに出られるように準備を整える。ゴミを集め、使った食器は洗う時間もないのでシンクへ運んで水で流す。戻ってくるかは判らないが、汚れたままよりいいだろう。

 

* * *

 安室が掛けた電話の向こうでは、行き詰まりを感じていた捜査がコナンが起きてから急展開を見せて、人員が明らかに足りなくなってきていたのもあり、現在最新のExif情報の場所へ確認に向かうことは、比較的スムーズに了承を得られた。多分、公安にとって笹島がどこにいるかは興味がない。それはきっと安室も同じだろう。

 安室の運転するRX-7が低く響くエンジン音を立てながら、間違いなく目的地の方向へ向かう早朝の、空いている高速に乗って数時間。休憩所に置いて行かれるというようなこともなく過ぎた頃、コナンはやっと口を開いた。

「……あの♭にはもうひとつ、別の意味があるんだと思う」

「別の?」

「今までの鍵盤を使った暗号だと黒鍵は使わなかったけど、今回は黒鍵に数字を割り当ててた。でもそれなら、いきなり黒鍵から始まる変ニ長調を選ぶのは不自然だよ。それに暗号の中で数字の出る回数がとても少ないのも変だ。だからこれは、変ニ長調じゃなくちゃいけない理由があったんだ」

「変ニ長調でなくてはならない理由…? ♭であることに意味があると?」

「更に言うなら、♭が五つ、必要だったんだ」

 ちらりと視線を寄越してくる安室の方を見返すことなく、コナンは進行方向である正面を睨み付けるように見たまま、言葉を続ける。

「イギリスの住居には、『フラット』があるよね」

「…日本では、フラット形式の住居やマンションはメジャーじゃないだろう? 強いて言えば、ルームシェアがあるが…あれは一部屋単位だ」

「確かに日本では、イギリスみたいなフラット形式が採用されてるところはめったにないと思う。でも、似たようなものならあるよ。一つの建物を大体ワンフロアごとに区切って使うものといえば…」

「オフィスビルか!」

 コナンに顔を向けて安室が声を上げるのに、頷き返す。複数のテナントが入るビルの、フロア貸しならば日本でもよく見る賃貸形式だ。

「建設中とか、もしくは閉鎖されているか…そういう感じの五階建てのビルなのかも…」

「もしくは『HIRAM』に関連する会社か。……各『Exif』情報周辺の五階建てのビルを探させよう」

 そう言って耳に装着している、ワイヤレスのインカムを弄ってボソボソとしばらくやり取りをするのを聞き流しながら、コナンも自分のスマホで素早く周辺の情報を確認していく。なにか違和感はないか。どこか、気になる所はないか。

 しばらく沈黙していた安室が、不意に片手でマイクの部分を押さえながら言う。

「五階建てのビルで、表面上怪しいものはないらしい」

「えっ…」

 まさか、考え方が間違っているのか。だが、複雑な暗号にしたって、受け取る側が解けなくては意味がない。だから遺言状の捜索でも使うくらいの、馴染みのあるもののはずだ。

 コナンが暗号を撮影した画像をスワイプしながらもう一度確認し、他の可能性を探る中、RX-7は高速を抜け通常道路へと合流する。

 そうしてフロントガラスが割れていたあの時と違い、静かな車内にひとしきり沈黙が続いた後、ぽつりと安室が呟いた。

「…本当に五階なのか?」

「え?」

「――地下があるのかも知れない」

 地下を含めて五階、ということか。

「あの四番目と五番目の間の『|』はそれか!」

 確かにテナントビルなら地下もあるだろう。それは考えてなかった。

 先程から見ている暗号をしばらく置いて、周辺情報へと切り替える。ビルらしきものを片っ端からチェックしていると、充電機能付きのホルダーに立てていた、安室のスマホが通知を受け取ってぱっと点灯する。それにちらりと視線をやった安室が、コナンが小さな膝に抱えていたノートPCを開くように言った。

 安室のスマホとデザリングをしているノートPCが何かのデータを受信したのを、スマホが通知したらしい。ノートPCの方にも同じ通知がデスクトップに表示されている。

「……、これ」

 開いたデータにはあるテナントビルの外観の写真と、そこに入っている会社リスト、その業務形態などについて詳細に書かれていた。その中でも目を引いたのは。

「輸入家具や雑貨を扱う貿易会社が、一階に入っている。そういう会社なら地下の倉庫を使っていてもおかしくはないし、あからさまに怪しい」

 資料を読み込むコナンの横で、おそらく耳にしたインカムで説明を受けたのだろう安室が説明する。

 輸入品を扱うということは、定期的に人や荷物の出入りがあるということだし、輸入雑貨を積んでいるコンテナに偽装した何かを積み込むのも可能かも知れない。たとえば、ドラッグとか。逆に違法に何かを輸出することも。定期的に貨物を動かせるということだ。

「この会社と同じような設立時期、業種の会社が他の『Exif』情報周辺にもあるのかも知れない。そして元を辿れば『HIRAM』に行き着くかも知れないな」

 もう公安はそのつもりで動き始めたのだろう。情報をくれた笹島の救出は優先度が低い。そのことにコナンは眉間に皺を寄せつつ、込み上げる感情をぐっ、と飲み込んだ。

 東都から県をまたぎ、更に奥深い山峡の道を走る。

 ぽつりぽつりと集落にも満たないような、スープはきっと冷め切ってしまうだろう距離を保って、以前は誰かが住んでいただろう家や埃で汚れた窓が閉じたうら寂しい小さな商店の連なり、それから人の出入りは感じられるものの年に数回程度の稼働しかしてなさそうな、何かしらの会社の幽霊工場らしきものがぽつんと、山の中から覗いている。

 そういうような山間地帯によくある風景の施設のひとつを、車通りなどほとんどない道の木陰に隠れながら駐めた車の中で、眼鏡を使って遠景から観察する。そのコナンの背中に、リズムを低く刻むエンジンの振動だけがする中、安室が静かに問いかける。

「君を動かしたのはあの暗号なんだろう?」

「…あのメールで重要なのは添付されている写真で、本文に書かれている暗号は笹島さんが和野さんに助けを求めるものだった。…最初の方はね。

 暗号も写真もない空メールはただ、生きてることを伝えるためだけに送ったものじゃないかな。そうやって暗号がないものが続いてるよね。そうして数通ぶりに暗号付きのメールが来てる。これだ」

 人の出入りなどもなく、人の気配も薄いその施設から目を離さずにコナンはスマホを操作し、安室へ画面を見せた。笹島のスマホに送られていた暗号を撮ったものだ。

 表示された文面を言葉にする前に、一度、息を吸う。

「『死んだなんて嘘だ、父さん』…笹島さんは、拉致された先でどうやってか、和野さんの死を知ってしまった」

 コナンの言葉を黙って受けた安室が、そっと口を開く。

「…これまで拉致された人達は何らかの理由で、拠点をあちこち移動させられている。居場所を掴めてないのも多分それが理由だ。だが、おそらくこの笹島さんは違う。こうして写真で位置情報を送って来ているということは、彼はどうやってか、彼らの仲間になってある程度の自由を得たんじゃないか」

「うん。じゃないと、スマホをいつまでも隠し持つことも、ここまで頻繁にメールを送ることも難しいよね…」

 思わず手に持っている自分のスマホを握る手に、ぎゅっと力が入った。

「笹島さんはずっと、身近な人を失い続けてる人だ。和野さんを『父さん』と呼んでいたほどの付き合いをしていたのなら、その死を知って、更に助けが来ないと思い、絶望的になってもおかしくはない。――ただ、笹島さんはとても、機転が利く頭の良い人だ」

「自暴自棄になった上、何をするか判らない、ということか…」

 たとえば、『HIRAM』を潰すまではいかなくとも、少しのダメージくらいは与えたいと考えてもおかしくはない。彼はもう、自分が『助かる』などとは思ってないのだ。彼らの仲間になることで、どういうことが自分の身に起こるのかよく、判ってしまった。

「リスキーではあるが、メールをこちらからも送ってみるかい?」

「………」

 安室の提案に、頷くことが出来なかった。

 笹島にまず独りではないこと…彼がずっと送っているメッセージを理解している人間がちゃんといるということを、気付かせる必要がある。

 だが、スマホというものは、設定を特に変えていない場合、通知があればLEDが光るようになっている。通知音を切っていても、LEDの設定は忘れていることが多い。その所為でスマホの存在が、笹島さんを拉致している人間たちに知られるのは避けるべきだった。こちらの下手な行動で彼を危険に晒すわけにはいかない。それにもう充電が保つかどうか。

 逡巡し、悩むコナンの耳にその時、雷が落ちたかのように大きな爆発音が晴れ渡る山奥に轟いた。

――!?」

 窓ガラスにぶつける勢いで額を付けて音のした方を注視すれば、もくもくと施設の方から黒い煙が立ち上っているのが見えた。そして再び、先程とは小規模ながらまたドォンという轟音。日中の山の中を、びりびりと振動が空気を重く揺らしている。

――まさか!」

 安室があげた声を聞きながら、コナンはシートベルトを外し後部座席へノートPCを放ると、車のドアへと手を伸ばす。そのコナンの腕を安室が咄嗟に掴んだ。

「安室さん、ここまで有り難う! ボク行くね!」

 本来の彼の役目とコナンがやりたいことは違う。だからこそ、ここで安室と行動が分かれても仕方がない。ここまで連れてきてくれたことだけでも充分に感謝している。

 だから離して、と続けようとして安室を振り返った瞬間、はっと息を呑んだ。

 逆光の中、彼の薄花桜の瞳が、獲物を定めた獣のいろで光っている。

 暗い車の中安室のアッシュブロンドも背中から受ける光によってちらちらとプリズムのように輝いて、まるでコナンの瞳の中で乱反射するかのようだ。

 ほぼ安室の顔を取り去ったいつかの時のような顔をして、こちらをその氷のような鋭利さでコナンを見詰め、彼はにやりと唇を獣の仕草で撓らせる。

「つれないことを言うじゃないか。君こそ、誰を協力者にしたのか忘れたのか? ――ここまできたら最後まで君に付き合って、守り通すさ」

 正面に向き直りながらシートベルトを再度付けるようにコナンに促し、シフトレバーを手早く操作すると彼はアクセルを強く踏み込んで、日本が誇るロータリーエンジンをまるで狼のうなり声かのように、ウォンとひとつ吠えさせた。

* * *