4.

 地下へ向かうただ長い廊下の途中、割れた窓から背伸びしてラボと簡易的な工場が合わさったような空間が広がっている階下を覗く。あちこちで起こった爆発での熱気が頬を撫でていくが、まだ目立った被害のないこの地下ラボのなか、ひとり動く人影が見えるあれは、もしかしたら。

 若い男性がこんな状況でもなお、設備に囲まれた中でPCに向かって何か一心不乱に作業をしている。少しヒリつく頬を無視し眼鏡を操作して拡大してみれば、やはり写真で見たとおり、笹島のようだ。

 あそこに行くには、と視線を巡らせた先、廊下の奥が瓦礫で塞がれている。これでは笹島のところへ行く方法がない。仕方がない、ここから飛び降りるしかないのか、と思った時。

「コナンくん!」

「安室さん!」

 背後から走ってきた安室がコナンへと近付いて、それからコナンの視線の先を追い、階下の笹島に気付く。

 最初の爆発を目撃してから、混乱で騒然とする施設近くに車を駐め、強引に潜り込み調べるうちに、ドラッグの生成を大規模で行えるように施設が改造されていることに気付いた二人は、それぞれの目的のために一度、別れた。

 さらに施設内にあった数々の薬品をもとに、『HIRAM』が使うつもりだったのだろう暗殺用の爆弾もここで生成出来る、という事実を突き止める。それなら爆発を起こしたのは自暴自棄になった笹島の可能性が高い、と見当を付けたコナンは彼を探して走り回る途中、逃げ遅れている人達の救助をしたことでこの地下を知り、ここまでやってきた。そして安室もどうやってか、地下の存在を知ったのだろう。

「あれは笹島か?」

「うん。何をしてるか知らないけど、早くここから救出しないと」

「本人が大人しくこちらの話を聞いてくれるならいいが…難しいだろうな」

 この状況でも逃げる様子が見られないのだ。助かるつもりがない相手にこのまま声を掛けても警戒されるだけかも知れないが、それでも。

 コナンは自分のスマホから、笹島が自分自身のスマホに送っていたメールの宛先に、あの暗号を使ってメールを送る。彼のスマホの充電はあるだろうか。そう思いながら彼の様子を見ていれば、彼ははっと手を止め、慌ててもたつきながらポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。それからこちらを見て、やっとコナン達の存在に気付き驚いたようだった。窓枠を掴んで背伸びしたままのコナンが声を張り上げる。

「笹島さん! 助けに来たんだ、そっちに降りられそうなところはない!?」

「助け…!? なんで子供が、いや、どうして…!?」

「説明は後です。早くしないと、恐らくあなただけが死ぬことになりますよ!」

 安室がコナンの背後から顔を出せば、笹島は目を瞠りながら動揺をなんとか抑え込んだようだった。

 そう、この施設のあちこちで起こっている爆発は、音も大きく派手に起こっているから威力はそこそこあるだろうが、設置された場所が関係しているのもあってか殺傷力はそこまで高くない。

 このまま施設に留まっていれば色々な要因で死ぬ可能性はあるだろうが、まだ手遅れにはならないはずだ。きっとそのように笹島が仕掛けた。彼は『HIRAM』を、この施設を潰したいと思っていたとしても、ここに居る人間達をすべて殺したいとまでは考えてないのだ。

「…いいや、これからどんどん爆発は酷くなる。そうなるように設定した。だからあんたたちも早く逃げてくれ」

「それはダメだ! 逃げるのは、あなたを助けてからだ!」

「いや、もう俺はいい」

 少しやつれ、すべてを諦めた顔をした彼は首を緩く振る。それを見たコナンはさらに身を乗り出す。

「ダメだよ、笹島さん! 死んでしまった和野さんをちゃんと見送ってあげられるのは、もうあなただけなんだ!!」

――そうだとしても……」

 くらい顔で笹島がぽつりと呟いた瞬間、ガン、と勢いよく机の上に拳を殴りつける。

「そうだとしても、合わせる顔なんかない!! 自分が助かりたくて、酷い目に遭いたくなくて、俺は、おれは……! どれだけの人の人生を台無しにしたか…!!」

 抱えた頭を両手で掻き毟りながら笹島が叫ぶ。ここで彼が何をしていたかは知らないが、この施設の様子と、彼は理系の学生だったことを考えると、色々想像するのは容易い。

「…ひとつだけ、知ってるなら教えてくれ」

 苦しそうに喉を震わせた声で、笹島が声を絞り出す。

「父さんは、運転をする予定があるときに風邪薬はけして飲まないようにしてた。本当に、報道の通りなのか?」

「……ッ、」

「違うだろ? そうだろ!? 父さんを殺したヤツはどうなったんだ、ちゃんと捕まったのか!?」

 笹島の剣幕に言葉が詰まる。言ってもいいのか。もしかしたら復讐心を煽った方が、この場から脱出してくれるかも知れない。だが、それは両刃の剣だ。追い詰められた人間に犯人は野放しであると嘘を吐くべきか。ここは真実を話し、コナン達を信頼して貰うべきではないか。

 目を閉じしばらく考えたコナンは、首を一度振ってから、笹島をまっすぐに捉えて告げる。

「……捕まったよ。昨日、手錠を掛けられて警察に連れて行かれた」

 その言葉を聞いた笹島は、その憔悴した顔に心の底からの安堵を浮かべた。

「よかった…それだけは、本当に……」

 力が抜けたように彼は膝を付き、俯いて深く、ふかく息を吐いた。数秒の後、毅然として立ち上がる。

「……この混乱でやっと監視の目がなくなって、家にある俺のノートパソコンと同期してるクラウド上にデータを上げられた。あんたたちがどういう人達なのかは知らないが――俺を助けに来たというのなら、それを警察に届けてくれ。お願いだ」

 きっぱりと救助を拒絶した彼はそれだけを言い、こちらに背を向け奥の方へ向かおうとした時。

 ドン、と大きな衝撃が起こった。

 爆発だ。

 近かったのか衝撃でコナンの体がふらつくのを、安室が咄嗟に抱き込んで庇う。さいわい瓦礫が飛んでくるようなことはなかったが、衝撃が下の方からだったことを思い出したコナンは、彼の腕に抱えられたまま身を乗り出し階下を覗った。

 地下ラボの様子は先程と打って変わって酷いものだった。瓦礫が散乱している中、笹島が下敷きになって倒れている。

「笹島さん!!」

 コナンが声を掛けるが、倒れている笹島はピクリとも動かない。そうだ、彼は自分の命はどうでもいいと自棄になっていたのだから、この地下ラボにも爆弾を仕掛けていたのだろう。それも、先程本人が言っていたように、威力の強いものを。

「笹島さーん!!」

「…ダメだ、気を失ってるらしい」

 もう一度呼びかけるが反応がない。素早く周囲を見渡して、コナンは覚悟を決め自分の装備を確認する。スケボーだけはないが、それ以外はいつも通りだ。

「仕方ねえ、ここから飛び降りるか…!?」

 割れてガラスの破片が残る窓を睨み付けて言う。

 距離はそこそこあるが、下に積み重なった瓦礫のお陰でサスペンダーを使えば少しは勢いを緩衝出来るだろう。サスペンダーがあれば瓦礫は取り除ける。あとはこの位置からは全体は瓦礫や設備が壁になって覗えないが、この地下ラボに他に出入り口があればそこから脱出出来るはずだ。

「安室さん、この地下ラボって他に出入り口ある!?」

「ああ、ひとつ、あることはあるが…」

 今の爆発で、使えるかどうかは降りてみるまで判らない。互いの眉間に皺が寄る。

 時間を掛ければ掛けるほどこれからの爆発に巻き込まれてしまう。それなら笹島を早く助けなくては。

 飛び降りるために窓枠によじ登ろうとすれば、力強いてのひらで肩を押さえられ、押し止められた。

「待て。このまま降りればこのガラスだけじゃなく、瓦礫で怪我をする」

 安室がコナンの肩越しに指で落下位置にある瓦礫の山を指し示す。確かにあんな不安定なところに着地するのは危険だが、多少の位置変更は飛び降りるときにやれる。こちとらスケボーで培った体幹で、木の根だろうとスタジアムの屋根だろうと乗り切ってきたのだ。

 そう思いながら彼を見上げると、窓枠に残った割れて切っ先が鋭いガラスを、どこかで拾った瓦礫でガツガツ砕いて下に落としながら言う。

「上から階下を見たとき、距離を近く感じてしまうのは火事の救助で知ってるだろう。彼を助けるのが目的なら、怪我や捻挫だとかの些細な失敗要因を作るのはダメだ。だから僕が君と一緒に、この窓からあそこの空中通路に向かって飛ぶ。――一度、やっただろう?」

 安室が茶目っ気を出して微笑みながらこちらにウィンクをして寄越す。そうして思い出すのはまだ記憶に新しい、彼の車ごと飛んだ夜のことだ。

 彼の視線を追った先、今居る廊下より低い位置に、床と柵だけの簡易な作りの空中通路が梁のように走っている。確かにあれを使って地下ラボに降りるのが一番いい。ただ、飛ぶといってもここからの距離は十メートルとまではいかないがそれなりにある。

 そして、この廊下の窓は高さも幅もあるが、あそこに飛び移るには助走が要るし、なにより。

「ダメだよ安室さん! まだ腕の怪我、治ってないだろ!?」

「だから観覧車の時みたいに、君を向こうに投げて渡せない。一緒に飛ぶ方がまだ勝算があるんだ」

 こちらをまっすぐ射抜く静かな声音に、コナンは口をつぐむ。それに優しい笑みを返してから、手に持っていた瓦礫を放り出した。

「協力者を最後まで守るのが、僕の務めだよ」

 コナンを左腕に抱えた安室は何度か安全確認してから上の窓枠に右手を、下の窓枠には足を掛け身を屈め乗り上げる。ぐっ、と安室の体に、筋肉に力が入ったのをしがみついた服越しに感じた。その状態で安室は何度か振り子のように体を揺らしてから。

――いくぞ。ちゃんと掴まってろよ、コナンくん!」

 跳んだ。

 あの時のような怖さはない。あの時のビルほどの高さも、RX-7ほどの速さもない。けれど彼はあの時と同じ力強さでコナンを抱きしめ、跳んだ先の柵を掴み、その勢いで体を倒し背中から空中通路の床に着地した。転がりながら反対側の柵にぶつかって止まった安室がぐっ、と息を詰めるのに、コナンは思わず腕の中で声を上げる。

「安室さん、大丈夫!?」

「大丈夫、受け身は取ったから。ほら、急いで」

「う、うん!」

 行動を促す安室の腕に従って、コナンは立ち上がるとサスペンダーを外した。それを柵にくくりつけ、両端を持って床へ飛び降りる。そうしてサスペンダーを伸ばしたまま笹島のところへ近寄ると、瓦礫を回り込んだりしながら外れないようしっかりと括り付け、モーターのボタンを押せば、あとはサスペンダーが持ち上げてくれる。

 空中通路の階段を降りてきた安室が後から駆け付けて、瓦礫の下から笹島を引きずり出してくれたのにお礼を言ってから、応急処置をするのを手伝っていると、安室が口を開く。

「降りてすぐ確認したけど、もう一つの出入り口付近でさっきの爆発を起こしたらしい。瓦礫で埋まってたし、もし無事でも指紋認証タイプの電子錠だったよ」

 それなら、逃げられては困る笹島の指紋は登録されていないだろう。

「それじゃあ仕方がないか…安室さん、何か考えがある?」

 この地下ラボ側から、コナン達が居た上階への廊下に繋がる本来の、出入り口のドアがひしゃげて壊れ、さらにそこを塞いでいる瓦礫の様子を見ながら問い掛けた。

「あるよ。もうしてる。君は念のため伏せて待っていればいい」

「えっ」

 いつの間に。そもそも伏せて待て、ってなんだ、と思った瞬間。

 咄嗟に庇われた安室の背中越しにバン、ともドン、ともいうような破裂音がした直後、がらがらと崩れる音が鼓膜を突き抜けて、安室の体越しに見れば本来の出入り口を塞いでいた瓦礫群が砕け散っていた。

――は?」

 爆発が起きて隙間ができ、人が通れるようなったのは判ったが、何故爆発が起きたのかが判らない。

 驚きの余りぽかんとしたまま出入り口から視線を安室へ向ければ、彼は笹島を背負いながら説明する。

「実は君と別行動してたとき、威力の弱い爆弾を爆発する前に見付けてね。解除したのを持ってたんだ。それで君が笹島と会話してる間に簡易的な時限タイマーを作って、廊下の奥、地下への出入り口を塞ぐ瓦礫の中に設置しておいた。さあ、行こう」

 歩き出す彼の後を瓦礫を避けながら追う。だから安室は廊下で窓枠のガラスを落とすとき瓦礫を持ってたのか、と合点が行った。時限タイマーを作る道具は、きっとこの施設内のあちこちで見繕ったのだろう。だが。

「無茶するね!?」

「そうかな、観覧車でもやっただろう」

 そう言えばそうだった。安室はなんでも有効ならどんな手段でも使う男だった。

「なんで時限タイマー?」

「君と笹島の話が長くなるかと思って。設置した距離的に一度避難しないといけなかったし。笹島と話している最中にこの地下ラボで大きめの爆発が起こるなんていうのは、僕だって想定外さ」

「今みたいに出入り口が通れるようになってから、笹島さんを助けに行けば良かったんじゃない…?」

「君がそれを言う?」

 うぐ、と詰まる。一秒でも早く笹島を助けたがったのはコナンだ。

 確かに、あの時コナンは瓦礫にとても近い位置にいて、あのまま身を隠せるような、遮る場所もない廊下で間近に爆発が起こるのは、窓ガラスもあって危険だった。それならまだ広く、耐火性があるこの地下ラボに居るときに爆発してくれた方が安全だ。

――いや待て、本当にそうか?)

 彼は指紋認証の出入り口が使えなくなっていることも想定して、保険で爆弾を設置していたのではないか。もし指紋認証がなく爆発の被害もなければ、その出入り口を使いこの部屋を離脱した頃に設置していた爆弾が起爆したはずだ。

 安室の計画にとって不安定な要素、地下ラボの爆弾がなければもっと別の方法を取っていたのかも知れない。

 どちらにしろ、笹島救出におけるタイムロスは防げたのだから良しとしよう。だが、コナンが笹島を助けたくて飛び降りようとすることも織り込み済みだとするのなら、それに乗っかったのは安室の方じゃないか。結局上手く使われたのだ。

「そうだね! 安室さんが、何の考えもなしにこういうとこ来るはずがないよね!」

 こういう何枚も上手な所を見せられると、尊敬も感動もするけれど、やはり悔しさもあって面白くない。

 退路の確保は確実にする。多分、あの爆弾以外にも手は幾つか考えていて、一番時間が掛からないものを優先的に選んだだけだ。

 そうして、カジノタワーへ衝突しようとする衛星の軌道を変えたあの時のように、協力者――コナンのために、その最高水準で鍛え上げられた優秀な能力をすべて、惜しまず使ってくれる。きっと、コナンが気付かずにいる間も、人知れず。

『はくちょう』の時も痛感したが、果たして自分が元の体だったとしても、ここまでの働きはきっと出来ない。この臨機応変さ、これが国を恋人とする男か。推理や発想力でならまだ追いつけるかも知れないが、それでも安室に頼ってしまうことは多い。

「安室さんて、ホント格好いいよね」

 教えてくれることは本当に少ないから、彼の行動を、考えを知るには、探偵として気付いてあばいていかなくてはならない。蘭とは違う難事件だ。

 少し拗ねながら言うが、変に静かになった安室を訝しんで見上げれば、何だかくしゃみを我慢しているような、なんともたとえがたい表情をして階段を上っている。

「どうしたの、安室さん」

――いや、」

 小首を傾げながら問いかけるコナンの顔をちらりと見て、安室にしては珍しく言葉を濁していたが、どこかでまた起こった爆発に、急ごう、と走り出した。

 

* * *

 日も暮れる山中、未だ煙の名残も強い消火活動の空気の中で、複数の人間達が慌ただしく声を上げながら走り回っている。消防や救急隊員、地元の警察とその中で紛れて動く公安の人間達だ。

 その光景を、少し離れた場所に停めている傷ひとつないRX-7に寄り掛かりながら眺め、コナンと安室はやっと一息をく。怒濤の一日だった。今まで休憩なしで頭も体も使っていたのだ。

 地下ラボからは崩れ落ちてくる瓦礫を避けつつ安室のための道を作り、最後にはひしゃげたシャッターの隙間をサッカーボールの膨張でこじ開けて、なんとか脱出に成功。これから毛利家に戻るには一度着替える必要があるが、コナンの体力はもう限界に近いくらいヘロヘロで、あとは安室の事情もあって人知れず去るだけなのだから、立ち上がるまでもう少し時間が欲しい。

 施設から出た時には安室経由の風見から連絡を受けていたのか、各所人員が揃って救助は始まっていた。

 救助隊員に笹島を預け、そうして二人はこうして見事に半壊した施設を見ているというわけだ。

「まさか、昨日の今日でここまでの事態になるとはね……君は本当に恐ろしいな」

 しみじみと言われるが、コナンだってここまでの進展は予想出来なかった。某小説ではないが『スマホを拾っただけなのに』、なんでだかこうなってしまっただけだ。だが笹島は無事救助されたし、やれるだけのことをやったという、達成感もかなりある。

「君はどんな人間だろうと、その身を削るどころか、命を使ってまで救おうとするな」

「人が人を助けるのに、論理的な思考は関係ないからね」

 呆れたような、感嘆したような、複雑な顔と声音で伝える安室に、救助隊員から分けて貰ったペットボトルを開け、水を飲みながら答える。

 それから少し今日の色々を振り返り、ふむ、とひとつ、心の中で頷いて。

「ねえ、安室さん。そろそろボクの『大切な人』になる気になった?」

 そう、問い掛ける。

 コナンにとって、新一にとって、『特別な人』はたった一人だが、『大切な人』は結構、多い。

「安室さんは自信がなかったんだね。ボクの『大事な人』かどうか」

 黙ってまじまじとコナンを見詰めてくる安室を見上げながら、言葉を続ける。

「そうだね、ボクたちはうそつき同士だから、そこは仕方ないと思うけど」

「…僕は君の大切な人達を、傷付けた」

「その辺のことは、もういいよ。ボクだって許されようと思ってないことも、ある」

 ちらりと安室を見上げる。それは来葉峠のことでもあったし、死体をすり替えた楠田のことでもある。あのことは到底許されないことだろう。きっと、工藤 新一は以前とは変わってしまう。その傍らに無事戻れたとしても、その変化を、蘭が許容してくれるかどうかは判らない。受け容れられなくて当然だとも思う。

 それにこれからも安室の任務の邪魔になろうとも、黒ずくめの組織の情報を得るために、強引に割り込んでいくだろう。

 それでも、安室のことを蔑ろにするつもりは全くないし、あの組織にNOCと疑われながらも、未だ潜入任務を続けられている点においてその能力の高さに感服するし、尊敬だってしている。そういう意味でもコナンにとって彼はなるべく近くに居たい相手でもあるし、もし彼が本当に望むのなら、助力だって惜しむつもりはないのだ。

 この人は本気の、全力でなければ要らないらしいが、でもそれはコナンの丸ごと全部が欲しいということと、同じだ。

 ――それなら、『大切な人』の自覚を持って貰わなくては。

「ボクの方はいつだって準備は出来てるよ。あとは安室さん次第なんだけど?」

 焚き付けるようににっこりと花が咲かんばかりの母親直伝の笑顔を向ければ、それを受けた安室もあまく目尻を緩ませ。

「コナンくん。僕たちはまた、一緒に事件を解決したわけだけど…」

「うん、そうだね?」

 隣に立つ安室を見上げながら、コナンはこてりと小首を傾げる。安室ときちんと視線が合う。不思議なことに、こんな風に初めて彼と目を合わせたような気持ちになることが、たまにある。

 爆発や煙の中を駆け抜けた彼は、さすがにその目立つアッシュブロンドも煤けて輝きを失っていたが、ポアロで見るのとは違う、彼本来の魅力が際立っているように見えた。

 その彼が、国際会議場の大屋根で見た、苦々しいけれども何かを吹っ切ったようなものに近く、けれど珍しく他意も含みもないような晴れ晴れとした顔をコナンへ向けて、言う。

「僕たちはセックスをするべきだと思う」

 コナンは躊躇うことなく、即座に防犯ブザーのピンを引き抜いた。

「待って、コナンくん。今のは言っただけで体は全く反応しないし、実際やる気も断じてない」

「通報先は佐藤刑事でいいよな!?」

「やめてくれ、僕が悪かったから。唐突すぎた。とりあえずそれを止めてくれないか。うるさくて会話が出来ない」

「唐突もなにも、あれで会話する気があったのかよ!!」

 飛び退いて後退って距離を取り、スマホを操作しながら怒鳴る。

(なんだコイツ、ホントに何を考えてるのか、全く判らない!)

 判らないが、とにかくヤバイやつなのは充分に理解した。猛獣が解き放たれているような危機感を持って相対する。しまった、麻酔銃は笹島の所にたどり着く前に使ってしまって、もう針がない。

「何事ですか!?」

「何でもない。ちょっと驚かせただけだ」

 鳴り止まないけたたましいブザーの警報音に、周囲の目がこちらに向き掛けたタイミングで駆け寄ってきた風見の背後に逃げ込む。スーツのスラックスにしがみつきながら、ブザー音にかき消されないように声を張り上げた。

「風見さん! ちょっと安室さんをあっちに隔離してボクに近づけさせないで! はやく!!」

「えっ、は、え?」

 突然のことに状況が飲み込めず、背後のコナンと目の前の安室の顔を交互に見る風見を放って、安室は風見を挟んだ状態でその足元、威嚇と警戒をしている小さな子供へと体を屈ませながらゆっくりと話し掛ける。

「待ってくれコナンくん。本当に悪かったから、話を聞いてくれ。それより君、防犯ブザーだなんて普通のアイテムも持ってたんだな…まさかそれも阿笠さんの発明品かい?」

「感心するとこ、そこかよ…」

 この状況でそのマイペースぶりを発揮する安室に毒気を抜かれて、コナンは口の端を引きつらせた。

「そうだった、君は小学生だったね。まだ君に言うべき言葉じゃなかった」

 安室のRX-7にコナンが乗って、内側から施錠する。安室はコナンの許しがなければ鍵を返して貰えない。会話が出来るように窓を少しだけ下げ、離れては居るものの撤収作業中の風見が監視し、コナンが座る助手席の傍らに、ドア越しに腕を組んだ安室が佇む。

(まだってなんだ、まだって。まだももうもねえだろ!!)

 安室にツッコミ返したい言葉は山ほどあるが、話が進まないためぐっと堪える。

「それで? なんであんなこと言ったんだよ?」

「ううん…君への感情を言葉にするのが難しいな」

 顎に指を添えるいつものスタイルで安室が考え込むのに、警戒心を隠さないまま睨みつけた。

「難しいからってアレはないだろ」

「ずっと自分の中で不明瞭だったのが、やっと言葉になったのがアレだったんだよ。絶対にやりたくないし出来はしないけど、やるべきだと思ったんだ」

「なにそれ怖い」

 思わず寒気が走って身震いする。

 先日のIoTテロの時だってそうだ。安室がやるべきと判断したことに、手抜きや失敗は一切なく、完璧にこなすだろう。だってそれは任務だ。骨の髄まで国の情夫おとこなのだ。

 両腕をさすりながら、おそるおそる声を掛ける。

「確認するけど、ペドフィリアじゃないんだな?」

「『恋人』に誓って」

 スポーツマンの宣誓ように左手を胸の辺りに掲げ、きっぱりと彼は言い切った。

 それは公安の、『降谷 零』としての言葉ということだ。嘘偽りがないと受け取って良い。よかった、トリプルフェイスという並大抵の人間では到底こなせない任務での重大なストレスよって、歪みが生じているわけではなさそうだ。アメリカで昔流行ったサスペンス映画で、戦争帰りの元兵士が精神を失調し誘拐犯や殺人鬼になっていたりする、アレだ。

 そうでなければ…と考えて、映画繋がりで他の可能性に思い当たる。危機的状況を共に乗り越えた男女が盛り上がる、その場の勢い的なアレだ。とある研究結果によると、男性は運動後に性欲が増す。さらに、死に直面する危機や激しい運動後に、男性フェロモンが出てより魅力的に見える。らしい。

「安室さん、ハリウッド映画とかのノリが好きなの?」

「全く」

(デスヨネー)

 返事をする前に小さく舌打ちしたのを、コナンの性能のいい耳は聞き逃さなかったが、敢えてスルーした。ハリウッドという言葉で思い出したのは千の顔を持つ魔女か、それとも。

 ふう、と大きなため息を吐いて緊張に強ばっていた体の力を逃してから、立てた膝に頬杖を突いて呆れを隠さない声で訊く。

「今までそんな感じだったわけ?」

「有り得ない」

 任務の度に盛り上がってたんですか、と言外に含めれば、食い気味に、そしてきっぱりと断言された。

「任務でなければ油断を招くようなことはしない。誤解がありそうだから先んじて言っておくけど、協力者の場合にも軽々しくはしないから」

「だろうな…じゃあなんで?」

 本当に訝しんで問い掛ける。一体、安室はどこでバグを起こしたのか。

「君のその存在が僕の中でただ、大きくて。すっかり忘れていた。おかしいな、君がまだ小さな子供だってこと、分かってたはずなのに。どうしてこんなにちぐはぐなんだろう」

 心の底からの疑問を口にしたあどけなさで安室が呟くのに、コナンの心臓がどきりと居心地の悪い動きで跳ねる。ドッドッと走る速さで乱れる鼓動を服の上から押さえて、コナンは安室の言葉を待つ。

――君が、」

 腕を組み深く思考していたところから汲み出された出された言葉が、苦笑の形をした唇からぽつりと落ちる。

「僕にとって、君が、恐ろしい男のうちの一人だからかな」

「安室さん、ボクが怖いの?」

 予想もしなかった言葉に驚いて思わず声を上げる。すると安室も、コナンと窓の隙間越しに視線を合わせてきた。

「そうだよ。僕は君が怖い。敵にまわったら一番怖い相手だから、取り込んでおきたい」

 セックスした相手を、大抵の人間の脳は『敵ではない』と認識するようになる。所謂『気を許す』という状態だ。遺伝子情報の交換をするのだから、当然と言えば当然か。

 安室はハニートラップに対し訓練もしているので気持ちの制御が可能だろうが、コナン――新一には、到底無理な芸当だ。ロマンチストで未熟な上、懐に入れた人間に対し雑にもなるが随分と甘くなってしまう自覚もある。『大切な人』がいい例だ。

「ずば抜けた頭脳を持ち、冷徹な思考も冷静な判断も合理的な決断もする。けれど君の根底にあるのは深い、人間らしい一途な情だ。僕はそれにつけ込みたい」

 無害そうな好青年の顔をして、告げる言葉の物騒さときたら。任務のためには倫理観すら機能しない。

 この男のこういう、少しも怪しくありません、危険な人物ではありません、というような雰囲気を出しておきながら、実際にはそうと自覚させることなく多くの情報を抜いているのだろうその手腕こそを、コナンは凄まじいと思う。

 今の時代は情報を握るものが、世界を動かすのだ。この男は『恋人』の秘密をどれだけその頭に収めているのだろう。

「……ボクたち、今まさに大きな秘密を共有してると思うけど」

「そうだね、秘密の共有は仲を深めるのに手っ取り早い手段だ。犯罪であれば特に。だが、君にはそんな人間が複数居るようだ。――そう、たとえば相棒や共犯者なんていうのも居たかな?」

 IoTテロの時公園の東屋で見せた偽悪的な表情で、まるで悪魔が蠱惑するかのように、こちらの瞳を、瞳から体の奥底までコナンのすべてを覗き込むかのように、見詰めてくる。

「君の中で他の誰とも違う、唯一の秘密で、僕は君と繋がりたい」

――なるほど)

 ようやく腑に落ちてきた。そりゃあ、こんな子供とセックスするなんて犯罪行為、他と共有している秘密の中では群を抜いてダントツにタブーだ。楠田の件はこれに並ぶかも知れないが、タブーの方向が違う。どちらが罪深いかなんてことも、比べることも出来ないが。

 もし本当にセックスをしたのなら、安室にとっての致命傷になるだろうが、当然コナンにとっても同じだ。そして、安室を『大事な人』と言ったコナンのこころさえも利用すると、彼は言ったのだ。

 恐ろしいのはどっちだ。この男は、子供に対する手段さえも有効ならば選ばない。

「なにより、僕を発く割に君の最大の秘密はけして発かせない。そうだろう? だから君の内側から発いてみるのもひとつの手だと思ってね」

 話しながら、安室は組んでいた右腕を起こし手をひらりと振って見せる。

 かの、偉大なる日本を代表する作家で、クーデターを起こした政治活動家は、『男の性欲は、好奇心、探求欲、研究心、調査熱等から成り立っている』と言っていたが、さて。

 安室を黙って見詰めていたコナンは、ゆっくりと口を開いた。

「それじゃあ、ダメだよ」

(馬鹿な人だなあ)

 コナンは心の中だけで安室にそう言った。

 命を賭しても絶対に成し遂げたいことがあって、コナンが誰かの味方になることで、自分の敵になって欲しくない。すでにその可能性は示唆されている。赤井を憎み、コナンのことを買ってくれている安室は、だからコナンを自分のものにしてしまいたい。何かの感情ととてもよく似ていて、危ういものだ。

(そんなことしなくったって、オレはあんたの敵にはならないよ。あんたの正義がまた、オレの正義とぶつかったって、それでも敵にはならない)

 そう言えたら良かったけれど、あいにくこのうそつきに、真実を伝えるにはまだ早い。誰かを犠牲にして、自分をすり減らして、正義を貫こうとする彼には、まだ。

「安室さんはプロだから、上手く隠すかも知れない。でも、オレは探偵だ」

 口を閉じ、目を瞠ってこちらを見る安室に、言葉を続ける。

「隠されたものほど発きたくなるし、オレに触れるってことは、証拠を残すってことだ。思っている以上にね。あなたの息づかい、表情、動き、あなたが気付いていない反射的なクセ、言葉がなくてもあなたが証拠だと思わないもので、オレはあなたを解いてしまうよ」

 記憶力にはちょっと自信があるからね、と思わせぶりににやりとしてみせる。

「安室さんは、そんな不手際に耐えられる?」

 あなたほど完璧を目指す人ならそんなことしないでしょ、と続ければ安室は、ははっ、と声を上げて笑った。いつもはただ、穏やかににっこりと微笑んでいる男にしては、珍しい。

――本当に、君はなんて子だ」

 髪をかき上げながら、言葉の優しい響きの割に目を細め挑むような、挑発するような視線でコナンを見下ろしている。それにコナンも、に、と不敵に口の端を撓らせて返す。

「ボクが大人になって、もっと別の誘い文句が聴けたときには、もしかしたら、万が一にも考えることもあるかもね?」

(まあ、多分どころか絶対一生ないと思うけどな!)

 コナンは内心舌を出しつつそう付け加えた。どう考えても、これは彼のよくある、『うそつき』の延長だろうと思ったので。

 相変わらず何を考えているか判らない。

 ホント一筋縄ではいかねえなあ、この人。と、ひとつため息を吐いた。

* * *