5.

 夜になれば街の灯りも車の通りもなくなる米花から遠く離れて、夜空に黒い柱のように立つビルのあちこちでいまだ煌々と灯りが点いているような、そんな繁華街とビジネス街の境目のような場所。エンジンも切り外の街灯だけが頼りの暗い車でバーボンとして待機中、ダッシュボードに立てたタブレット画面で、一人の男が死の際に脚のない鳥の話をしている。

 眠くなれば風の中で眠り、地上に降りるのはただ一度、死ぬときだけ。

 元々は他の作品からの引用だが、男は脚のない鳥を信じ、度々己と重ね合わせ、関わる人々の人生を狂わせていきながらありもしない愛情を求め、最後には「鳥は飛ぶ前に既に死んでいた」と、自分の孤独な人生すらも破滅させて終わる。その男の最期には、彼に拒まれても愛し続けた女達ではなく、元警官の男が寄り添っていた。

「珍しいものを観てるわね」

 RX-7の助手席のドアが開いて、ベルモットが変装用の人工皮膚を剥がしながら乗り込んでくる。そちらにちらりと視線を向けて、バーボンとして使用している複数のウィンドウが開かれたPCの画面を示した。

「仕事もちゃんとしてますよ、ほら」

「知ってるわ。貴方のする仕事に抜かりがないことはね」

 宵闇の中、低い天井が迫る部屋で男が身支度を調えているシーンを映し出していたタブレットの電源を落とし、ダッシュボードへと仕舞うと、PC画面で先程までベルモットが会っていた人間が動き出したのを確認して、車を発進させた。間に何台か挟んだまま尾行する。今日の仕事は良くある取るに足らない仕事だ。追跡している相手に仕込んだ盗聴器によって電話の声がPCから吐き出されるのを、ウィッグを取り去ったベルモットが窓に頬杖を突きながらじっと見詰めている。

「その映画はダンスが素敵だったでしょう。貴方も口だけじゃなくて、あれくらいの色気が出せるならね」

 暗い車内で、ぽつりと女性ならではの言葉を零すのに、ふ、と小さく笑む。映画の中、主人公の男が下着姿でチャチャチャを踊るシーンがあるのだ。見た目は最高に格好悪いのに、醸し出される色気といったら。女が放っておかない気怠げな、退廃的な中に滲む寂寥感。愛を知らないくせに女心をわし掴む殺し文句。

 愛を知らず、忘却を恐れるが故に弱く、愛を拒絶した、求めた愛を得られなかった脚のない鳥

 どうやら女優という貌を持つベルモットにして、賛辞が出るほどの俳優らしい。

「そうですね。勉強になりましたよ、とても」

 にっこりと微笑んで返せば、胡乱げな視線を返された。そうしてもはや断りもなく取り出したスリムな煙草に火を付けると、ふう、と深いため息と共に煙を吐き出す。

「…貴方も『脚のない鳥』なんでしょう?」

 四月十六日、一分間の友達を求める男。その一分間を否定出来ない事実と言い、もう後戻りは出来ない、忘れないと言って離さない。そうして『肝心なことは忘れない』と言いながら、『忘れた』と別れを告げる嘘つき。吐き出す言葉は真実か偽りか、そうして誰かの元へ飛んでいって関わっては記憶に傷を残して、その人生を狂わせていく。

 ――オム・ファタル。

 バーボンとして、または安室として仕事をするのに、そういう男を演じているのだろうと当て擦られた気配を察して、苦笑を返す。

「ご存知かどうかは判りませんが。『脚のない鳥』というのは、極楽鳥が間違って中世ヨーロッパに伝わったものなんです。美しい飾り羽が目的で輸出されたんですが、その時羽を傷付けないために脚をあらかじめ切り落としていたそうですよ」

 様々な種類がある極楽鳥だが、青い飾り羽を持つ極楽鳥の漆黒は、光の最大99.95%を吸収する、他の色にけして混ざらない純潔さだ。求愛ダンスの素晴らしさも有名だが、自由を奪われれば死ぬ鳥とも聞いたことがある。

「百の顔を使い分けるのに脚を失えというのなら、切り落として見せますよ」

 切り落としたのは己の脚ではなく、共に成長してきた片割れともいえる、幼馴染の命だったけれど。

 フロントガラスを睨みつけるようにして呟いた言葉に、ベルモットが面白そうに口の端を上げ、皮肉を返してくる。

「失ったことのない人間には、ただひとつの顔も演じられないとでも言うつもり?」

「おっと、貴女には泳ぎ方を教えるようなものでしたか」

 釈迦に説法ならぬ、大女優に演技の心構えを説く、だなんて大それたことをするつもりはなかったので、肩をすくめて見せれば、ベルモットは冷めた表情で鼻を鳴らした。

「まあ、貴方のそういうところ、向いてると思うわ。下手な役者よりはね。一応実力が伴ってるから」

 話しながら向けた視線の先、PCで監視していた追跡中の人間の動きが止まった。

 車内の空気が僅かに緊張する。やり慣れた良くある仕事でも、油断はしない。もし監視の目があった場合、警戒されない位置に車を駐める。

 黒の組織から得た情報を、他の組織へ流しているスパイの確認。スパイ自体は大した存在ではない。ただ、情報を流して取り入ろうとしている、その相手がなかなかに魅力的だった。ジンに任せると確認も何もなしにすべからく殺してしまうので、バーボンがスパイの情報を集め、ベルモットが接触し、情報を流している相手先を取り込もうという算段だ。

「じゃあ、行ってくるわ。すぐ動けるようにしておいてちょうだい」

「ええ、判りました」

 助手席を降りて、追跡していたスパイが居る場所へと歩いて行く彼女の後ろ姿を見送り、ゆっくりと車を走らせつつ、注意深く周囲を探る。監視はなく、尾行もないことを確認して、ベルモットの連絡を待ちながらPCの様子を確認する。録音も問題ないようだ。

 極楽鳥というのは、比翼の鳥でもある。

 記憶にしか残らないからこそ忘却を恐れ、ありもしない愛を求めるところは、安室はまさにあの映画の『脚のない鳥』と似ているかも知れない。比翼連理の枝に止まる為の脚も、共に在ってくれる誰かも、狂おしいほど欲していたのに手に入れられなかった、哀れな鳥。

 そこまで思考して、ようやく理解した。

 安室は、降谷は彼に、江戸川 コナンに、忘れられたくない。

 その愛はけして得られなくとも。

* * *

 星空の中に立っている。

 いつか、そういつかの夜。いいや、あれはまだ朝陽が出る直前の黎明だったかも知れない。

 海を前に、幼馴染みの景光と寝転がっていた。夜釣りでのんびり魚を待っていて、だからあれは夏の記憶だ。夏の昼間は暑くて釣りに向いていないから。その時に満天の星を眺めながらとりとめのない話をしていた。将来の話もしたと思う。男二人でそういうセンチメンタルなことをしても照れくささを感じなかったのは、ひとえに夜で互いの顔が見えなかったからだ。

 その時、空の真上は濃紺の星空があるのに、その下の水平線からうっすらと赤みを帯びて来ていた。太陽が徐々に昇って、赤から黄色へ、それから夜の帳を払うかのように現れる透き通った、生まれたばかりのたわやかな薄明るさのミントブルー。夜と朝が同時に存在し、その移り変わりを二人で眺めるのは、夏の風物詩と言えるものだった。

 今、見上げる星空もまた、朝明けを待つ未明のルール・ブルーだ。

 見渡す限り、青白く呼吸するかのように発光している大小様々の星が降谷の頭上だけでなく、降谷の体の周り全体を覆っている。視界を遮る遮蔽物もなくまるで宇宙の中に居るかのようで、しかし足元はしっかりと、よく通う河原のような土と草の気配を感じる。

 こういうのを、星の林というのだろう。

 ちかちかと間近で発光する大きめの星へ手を伸ばせば、水の中の小石を拾い上げるようなたやすさで手が届きそうだった。その思いつきが自然と腕を伸ばす。そうして本当に指先が届いてしまったとき、無意識にそれをたぐり寄せていた。本来星は燃えていて熱いはずだが、降谷のてのひらに収まった星は冷たい色でぱちぱちと燃え上がっている。その揺らめきが星の瞬きになっているようだった。

 この星は、死んでしまった誰かなのだろうか。

 ふと、そんな迷信を思い出す。では、この瞬きは誰かの鼓動のようなものか。目の高さまで持ち上げて、水晶の中に透明な藍白い炎を閉じ込めた星を、かお縹色はなだいろの空に透かしてみる。

 この星がかつて生きていた誰かだとして、降谷が掴めてしまったということは、懐かしい友か、それとも。

 瞬くそのきらめきを見詰めていると、あまりにも綺麗で、不意に食べたくなってしまった。口に入れたら、桃を食べたときのような瑞々しさを、または炭酸を含んだ果物のような甘い爽やかさを感じられるのではないかと、そんなことを想像する。

 もしかしたら、ミントやメリッサの入った氷砂糖のような。そう考えながら口元へその星を運んだとき。

 ぎゅ、と突然、無防備に降ろしていた左腕の指を、後ろからつたない感触で握られる感触がした。

 驚き、勢いよく振り返る。

 視線の先にはあどけない顔をしてこちらを見上げている、江戸川 コナンが居た。

 不思議なこども。体ばかりが小さい、降谷が恐れる男のうちのひとり。何故ここに。

 眼鏡のレンズが星空を写して、彼の青をよりいっそう輝かせ、魅惑的なものにしている。彼にこうして触られているのは不思議だった。彼は警戒心がそこそこ強く、大人の気を引くのにも大抵、直接触れたりはしない。その彼が、という驚きと、小さな手だから大人の指を二本程度掴むので精一杯なのか、という二重の驚きで、言葉が詰まる。

 こんな、幼い小さな手で、彼は。

 その短い指の柔らかさといとけなさに戸惑っていれば、弧を描いて自信に満ちた笑みを見せたコナンは、もう一度掴んでいる降谷の小指と薬指を強く握った。

 食べるな、ということだろうか。こんなに綺麗なのに。

 手のひらの星を惜しく思いながら見詰め、もう一度コナンへと視線を移そうとした先、彼は消えていた。

 子供の目線の位置にあったのは誰かの脚で、コナンが居た場所に誰かが立って降谷の指を掴んでいることに気が付いた瞬間、ぎょっとして咄嗟に手を振り払い、素早く距離を取って相手の顔を見る。

 そこに居たのは、帝丹高校の制服を着た青年だった。

 すらりとした長身。日本人の平均的身長を超えているだけでなく、全体のパーツが整っていて、絶妙なバランスで成り立っている。大女優譲りの美貌、父親譲りの理知的な彩を湛えるその瞳には、隠しきれないそのきらきらとした好奇心と、青少年らしい無鉄砲な若さが垣間見えた。

 それでも纏うのはこの夜明けの空の、世界の果てが広がるような静穏な晴れやかさで、その青だけが長い睫毛の下で玲瓏に周囲の星空を映して光を弾いている。

 この顔は知っていた。江戸川 コナンの親戚だということになっている、工藤 新一、その人。資料で何度も見たし、公安は面識率が命だ。それにコナンをそのまま成長させたかのようなこの顔を、見間違えることなど出来ないだろう。

 何故、この姿では会ったこともない、資料でしか見たことのない彼が、ここに。驚きでただ固まっている降谷に、彼は悪戯っぽそうな顔をし、眼を細め見慣れた仕草で小首傾げると、ふふ、と鳥の羽ばたきのような軽やかさで笑ってみせる。

 その笑みにただ魅入っている間に、彼はそっと降谷の手から星を奪い、止める暇もなく優しい仕草で星空へ放ってしまった。

 その星はそのまま流れ星になって、くるくるきらきら、回転しながら遠くへ流れていく。言葉もなくただその様子を見ていると、隣に立つ工藤 新一は静かに、何かを祈るかのような切なげな想いのこもった視線で見送っていた。けれども、きっと彼はコナンと同じく、どんな願いごともすべて自力で叶えてしまうだろう。そう感じさせる強さがその青い瞳にはあった。

 その姿に、降谷も改めて流れ星へと視線を移す。

 流れ星に願いなんて、子供の頃以来だ。三十路を前にした男がするようなことではない。だが、こんな不思議な状態でならやってみてもいいような気がした。夜釣りの時と同じ、そういうことをしても許される夜だ。

 彼の瞳はコナンと同じ極楽鳥の飾り羽のような、目に鮮やかな夜明けのルール・ブルーで、きっと彼が零した涙こそが星になるのだな、と頭の隅でそんなことを夢想しながら、願いを三回、唱えようとして。

 がくん、と体が落ちるような感覚で目が覚めた。

 カーテンの隙間から入ってくる朝日の眩しさに、ぱちりと一回、鈍く瞬きをする。

 なんとまあ、三十路前の男がみるにしては呆れるほどメルヘンチックな夢だ。

 あいにくと夢の分析をするような性質でもない。短い睡眠時間に変わりはなかったが、久しぶりに質のいい眠りだったような気がして、上体を起こすとぐっと体の筋肉を目覚めさせるように背伸びをする。左腕の引き攣れも、だいぶ違和感がなくなってきた。

 五月ももう終わりだ。今日も気温と湿度が高い。

「わあ、これアジサイのイメージですか? 綺麗ですね!」

 器の中にブルーベリームースと擦り下ろしたレモンの皮を含んだレアチーズ風味のヨーグルトムース、二層のムースの土台を作り、その上に製菓トレーに作った薄い青と紫、赤紫とそれぞれ色と味の違うゼリーを約一センチ四方に包丁で切れ目を入れたものを、スプーンで掬って盛り付ける。飾りでデラウェアとミントを載せて完成。ムースもゼリーもあらかじめ準備しておけるものだから、注文を受けた際手間も掛からない。ゼリーにはブルーキュラソーを使うと発色が鮮やかになるが、子供にも食べられるよう配慮した。

「ええ。最近暑くなってきましたから、こういうゼリーを乗せたムースはどうかと思いまして」

「良いと思います! 梅雨の間の、期間限定ですね」

 ランチの忙しい時間も過ぎ賄いを揃って食べた頃、そろそろ良いかと冷蔵庫から前もって作っていた試作品のスイーツを取り出すと、梓は手放しで喜んだ。明るくはしゃぐ梓に微笑み返し、ゼリーの薄い青をちらりと視界の端に写す。夢の中で食べようとした星のことが頭に残っていた。

「でも、天の川みたいなイメージもあるかも! このゼリーの上に金箔とか散らしたら良さそう」

 相変わらず勘の良いことを言う。思わず反応しそうになって、はははと軽い笑いで返す。

「それならもっと濃い青のゼリーが映えるんじゃないでしょうか。下も果物入りのミルクゼリーにするとか、果物を星形に型抜きして飾るとか…」

 そう、あの子の青のような。最近よく見るようになったタイプの七夕スイーツの話をしながら、濃い天色あまいろを思う。そこに金粉を散らせばそれはラピスラズリのようだろう。あれは地味に見える石だが、日の光の下、星を思わせる黄鉄鉱が金粉のようにきらきら輝く様は、なるほど星空のように美しい。そのラピスラズリの上澄みと呼ばれるアウイナイトの成分が多いものこそが、彼の青と並ぶかも知れない。

 安室の提案に、梓は美味しいと言いながらムースを食べていた手を止め、ううん、と唸る。

「それって最近よく見掛けるものですよねー。お店としてはもう一工夫が欲しいような…」

「まあ、あれはご家庭でも作れますしね」

 確かに店で出すものならば、限定感や特別感が必要だ。一工夫、と言われてすぐに思いつくものは。

「上の青いゼリーの部分を炭酸にするのはどうでしょう?」

「わぁー、想像するだけで美味しそう! …うーん、でも海っぽい感じになりますね…天の川じゃなくていっそ海にしてみます? 海の日もありますし」

 食べ終えた梓は腕を組み、目を閉じてうーん、と唸っていたが、突然目を開いて、あ、と言った。

「炭酸と言えば、私ひとつ気になってることがあるんです。炭酸フルーツってあるでしょう。あれをゼリーに閉じ込めたら、いつまで炭酸のシュワシュワ感って残ってるんでしょうね?」

 ゼリーの中に、シュワッとした果物が入ってたら、絶対美味しいのになあ…と梓が呟くのに、自分も想像してみる。

 炭酸水に浸けるよりはドライアイスで作った方が、使える果物の種類も増えるし、果物自体の味が薄まらなくていいかも知れない。梓の言うようなものが作れたら確かに珍しいし、話題性もあり、そして何より夏らしくていい。本当は、蜂蜜に浸けたレモンの、レモンゼリータルトを作ろうかとも思っていたのだけれど、それはまあ、一人に食べて貰えれば良いものだし。

 顎から手を下ろし、梓に向かって軽く笑む。

「なるほど…出来たら面白そうですね」

「でしょう!? 安室さん、ちょっと試してみましょうよ!」

 俄然やる気になった梓に、ただし、その場合炭酸フルーツの仕込みに5時間掛かる、と言えば、あからさまにがっかりした。

「もし上手く行っても、毎日続けるのはちょっと大変ですね…話題性があればお客さんが呼び込めるのに~!」

「夏の間、曜日を決めて期間限定をやるのはどうです? 果物ごとにカラフルなゼリーキューブにして敷き詰めて、ゼリーポンチにしてみたら見た目も綺麗かも知れませんよ」

 アイスを乗せたりして。そう言えば、しょんぼりしていた梓の顔に元気が瞬時に戻ってきた。座っていた椅子から立ち上がり、今にも飛び跳ねんばかりに喜色を表し、ぐっと拳を握りしめると前のめりに言う。

「ものすごく楽しみになってきました! 私もお手伝いしますし、ぜひ頑張って完成を目指しましょう。安室さん狙いの女性客大量呼び込みを見込んで、果物も奮発して!」

「僕は構いませんが…」

 炎上を厭っていたのでは、とそっと覗えば、きりりと眉を跳ね上げきっぱりと梓は断言した。

「ポアロの売上になるのなら、私はただ体当たりで接客を頑張るだけです!」

 尊敬すべき店員魂だ。とても勇ましい返答に内心拍手を捧げたくなる。そんなことをしようものなら原因がなにを呑気な、と怒らせてしまうだろうけども。

「あ、でも、当日はなるべく近付かないようにしましょう」

 そう言いながらささっと食器を回収し、洗うべくカウンターの中へと入って早くも距離を取る。こういうドライなところはやはり梓だった。

 そうと決まれば試してみるためにも休憩と夜用の買い出し当番お願いします、とポアロから追い出され、所用をすませた帰り道、通りがかった公園前でとても見慣れた、癖のある後頭部を見付けた。小学生も一年ならば、帰りだって当然早い。

 レイヤードセットの淡い水色Tシャツに、濃いめのブラウンのズボン。相変わらず小さい体でしゃがみ込んでいるな、と思っていれば、すぐに立ち上がる。その背中に声を掛けた。

「コナンくん」

「あれ、安室さんだ。こんにちは」

 どうやら先日の失言は水に流してくれたらしい。コナンはこちらを警戒する様子もなく、素直にいつもの様子で挨拶してくる。

「こんにちは。何してるんだい?」

 振り返ったコナンは手に何かを持っていた。それを覗き込めば安室の視線に合わせて持ち上げてくれる。

「四つ葉のクローバーを探してたんだよ。少年探偵団の方にそういう依頼があって」

 なんでも好きな子の誕生日に、どうしても四つ葉のクローバーをあげたい子供が居るらしい。自分だけでは見つけられないかもしれないから、というので手伝うことになったそうだ。けれどその心配も、桜の咲く頃から六月くらいまでの植物が成長しやすいこの季節なら比較的見付けられるはずだから、無用のものだっただろう。

「へえ、君たちはそういうこともするんだね」

「まあね。でもあいつら、すぐに目的を見失っちまうから…」

 ちらりとコナンが公園の奥の方へと視線を向ける。その先に居る子供達を見れば、どうやら歩美を中心に、白詰草や他の花を使って花輪を作る方に移行しているようだ。プレゼントならこちらの方が華やかだ、という話になって、作り方を教えているらしい。

 その子供達を安全圏に置いて、ちゃんと自分はどんな依頼でも熟す。この子の探偵らしいところだ。

「さすが君だ。ちゃんとよく見てる」

 公園の出入り口や、公園の中で人がよく通るところを探して見つけたのだろう。自然に出来る四つ葉のクローバーは十万分の一の確率だと言われているから、条件を満たしていても、必ず生えているとは限らない。

 その根気と観察眼に感心してみせれば、コナンも当然という顔で訊いてきた。

「安室さんは、四つ葉のクローバーがどうして出来るのか、知ってる?」

「クローバーが若葉の頃に出来た傷から、四つ葉に分かれるんだったね。だから、人がよく通るところに出来やすい」

 もし事前に準備が出来るなら、針などで刺激を与える方が確実だ。今では遺伝子操作されたものがあるそうだが、幸運を自分で見付けられた、という達成感が得られ難いような気がして、そういうのは味気ないように思えてしまうのは、まだ夢の残滓が頭に残っているのか。

 安室の返答によくできました、とでも言うようにコナンは満足げに頷いた。

「そう。四つ葉のクローバーは、傷つけられないと出来ない。三つ葉を踏みにじってでも四つ葉を、『幸せ』を探す人がいないと、『幸せ』は生まれてこないんだよ。

 だから、どんなに踏みにじられて辛いときにも、先が見えなくて傷付いても、掴もうとする限り光はあるんだ。――きっと、幸せな未来が」

 コナンの視線がてのひらの中の四つ葉に落ち、レンズからの光を受けて水面のようにきらきら輝く青い瞳が、光を弾く睫毛に僅かに隠される。そこに夏前のしなやかな風がさあ、と彼の前髪を弄んでは、その白磁の肌にはかなく木陰のさざめきの様に影を落とす。

 なんだかとてもうつくしい光景で、安室は思わず一拍、呼吸を忘れて魅入ってしまう。

 彼が顔を上げ、屈む安室の顔に正面から珍しく春の日差しのやわらかさで微笑みを向けると、夢そのままの幼い小さな手が四つ葉をひとつ、こちらに寄越してきた。

「はい、あげる。安室さんにも、幸運と幸福がありますように」

 受け取ることも出来ず、ただ呆然と安室の幸せを願ういとけない笑顔を見詰め返す。

 その四つ葉のように十万分の一の確率で、手を伸ばせば『幸せ』が自分の元に訪れるのだろうか。

 でも、それなら。自分は本当に欲しい、唯一の『幸せ』しか欲しくない。

――僕は、君のものになっていいの?」

「なに言ってるの、安室さん…」

 安室の言葉に、可愛かった笑顔はとたんに呆れたように半目になってうろんげにこちらを見てくる。

 ボクはポアロに来るお姉さん達じゃないんだから。コナンはそう言いながら、安室の胸にぽす、と四つ葉を持った拳を押し付けてくる。

「そもそも、安室さんは『恋人』が大事なんでしょ」

「…『僕』には恋人なんていないよ」

『恋人』が居るのは降谷なので、四つ葉を彼の手ごと受け取りながらそう返せば、コナンはあからさまに面倒くさそうな顔をした。

「ちょっと安室さん、手! はーなーしーて!」

「まあまあ」

「なにその雑な誤魔化しかた!」

 むくれる幼い頬にはは、と笑って返す。

 だって手を離したくないのだ、仕方がない。そして今だけはこの手を繋いでいたっていいだろう。いつかはこの手が別の誰かと固く結ばれることは知っている。だから今、この手を繋いでいる間だけは、彼のものになってもいいだろう。

「そういえば、今日は蘭さんが部活で遅くなるんだってね。先生もお仕事だって聞いたよ」

「うん。だから悪いけど晩ごはんよろしくね、安室さん。 で、手は離して!」

「まあまあ、このままポアロまで一緒に戻ろう。そろそろ休憩が終わるんだ」

「ええー? いやホントちょっと待って、これあいつらに渡さないと」

 そのまま子供達のところへ行き、四つ葉を渡して依頼人の子供に探し方のコツを教え、コナンに導かれた彼が無事に自力で見付けた後、そのまま別れた。この後彼らは阿笠のところで四つ葉を押し花にして、栞を作る準備をするらしい。元々は依頼人の子供が四つ葉のみを欲しがったものだが、少年探偵団が栞作りまで協力するのは完全な善意だ。依頼を終わらせたコナンは最初から、そこまで付き合うつもりがないようだった。

 それより、新しく手に入れた本が読みたくて仕方がないらしい。

「晩ごはんまでポアロで読んでてもいい?」

 以前、毛利探偵事務所で留守中に事件が起こったこともあって、コナン独りでの留守番はさせられないことになっている。そのことは聞いていたから、安室はもちろん、と頷いた。

「いいよ。今日は何の本を読むんだい?」

「ホームズだよ。新しいホームズ・パスティーシュを優作おじさんに送って貰ったんだ!」

「ああ、『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』みたいな?」

 いや、あれはどちらかといえばパロディの方かも知れない。

 ホームズ・パスティーシュといえば、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー、モーリス・ルブラン等、著名な作家達がそれぞれの持ち味を生かして書いた作品集、いわゆるアンソロジーは古今海外のみならず日本作家のものもある。『緋色の研究』発売百周年にはかのホラー界の巨匠、スティーブン・キングも執筆した。ここ近年公開されている、映画やドラマになっている異色ホームズも、そのほとんどがパスティーシュだ。

「そー。ユーモア作家が書いた中には、ホームズがゴルフをする話もあるよ。ゴルフ場で事件が起こるんだ」

「そのホームズはバリツはしなさそうだね」

 恐らくこの子はシャーロキアンらしく、ホームズ・パスティーシュ作品の中でもホームズの生涯を伝記風に書いたという本を、何度も読み込んで聖典にしている気がする。

 内心そう考えながら、繋いだ手の先にいる小さな子供を見下ろす。彼が名乗る、『コナン』というケルト由来の名前は『賢明』という意味を持つことを、彼は知っているだろうか。作家から拝借したとはいえ、名は体を表すとはこのことだろう。

 彼の不格好に大きなレンズの向こう、そのうつくしい青は夕陽になろうかとする、いっとう目映い金色の陽射しを受けて、鮮やかにきらめいていた。

 ルール・ブルーは夕陽が落ちて夜が来るその一瞬前にも現れる。太陽の光を内包した青は、そのまま夜明けを連れてくるのだろう。

 それを見ていたら、ぽろりと出すつもりのなかった言葉がいて出る。

「君が夢に出てきたよ」

「えっ、どんな夢?」

 興味というよりは、警戒を含んだ強張った顔と声で訊いてくる。どうやら先日の失言以来、出来ないしやりたくないと言ったはずなのだが、安室を小児性愛者と疑っている気がする。

 誤解を解くために安室らしく優しげににっこり笑って、軽く明るい声音で続けた。

「星を食べる夢」

「食べたの!?」

 思ったより驚かれて逆にこちらが驚く。メルヘンすぎたか、と疑問に思いながら返事をする。

「いや、食べようとしたら君に止められた」

 こんな風に、手を取って。

 今思えば、何故あんなものを食べようと思ったのか、不思議でならない。まあ、所詮は夢なのだし、そんな細かいことを気にすることもないだろう。なにより本題はこちらだ。

「それで、ちょうどこれからの季節に出す新しいスイーツのヒントになったから、作ってみたんだ。君にぜひ試食して貰いたいと思って……コナンくん?」

 歩みこそ止めてはいないものの俯いて、完全に思考に入り込んでいる。軽い話題のつもりだったのに、予想以上にコナンが真剣に受け止めたことに戸惑った。一体どうしたのだろう。

 手を引かれるまま数歩進んでから、思考から戻ったコナンは安室を見上げて言った。

「うーん。…あのね、安室さん。もし、安室さんが星を食べそうになってたら、ボク何度だって止めるからね。絶対」

 なぜだか心配気に、それでも真剣な眼差しできっぱりと告げてくる彼に、ぱちり、とまばたきを返す。

 気にすることもないような、なんてことのない他愛ない夢の話だ。それでも彼がこんなにも言ってくれるのが嬉しくて、自然と微笑み返しながら問い掛ける。

――それが、いつでも?」

「うん」

「覚えててくれる?」

「それ、ボクに訊く?」

 つい甘えたような言葉が出てしまったが、彼は気にとめず、それよりも侮られたと感じた方に反応してきた。

(判ってるさ名探偵、君を侮れるはずもない)

 安室が、降谷が恐れる男。きっとどうしたって、彼を殺すことは出来ないだろう。今だけは牙を抜かれた犬だ。

 ああ、とてもくすぐったい。そのじんわりと胸に広がる温かいくすぐったさを噛みしめながら、言う。

「頼もしいな。そう、…そうか。嬉しいよ」

 その約束だけでいい。

 この恋の、終着点を見た気がした。

「夢には続きがあってね。何故か君の親戚の、工藤 新一くんが出てきて、二人で流れ星を眺めたよ」

「っ、……!? はぁ!? なんで!?」

「さあ? それともあれは、僕なりに大きくなった君を想像したのかも知れない。それが工藤くんになったのは、僕の想像力の限界だったとか…」

 顎に手をやり思わせぶりに言って、焦るコナンの様子を楽しむ。

 彼の最大の秘密を、本当は知っている。コナンが降谷を知るように、会ったことのない工藤 新一を、確かに知っている。

 でも、今はまだ。秘密が死ぬにはまだ早いから。

 夢のように、コナンと二人で星が見たくなった。

 彼が生まれた季節の星を見るのに、まだ間に合うだろうか。

 そんな話をした数日後、安室は賢く根性のある仔犬を拾った。

 工藤夫妻に真夜中のお茶会に誘われるのも、星を食べてしまう夢は死の予兆だと知ったのも、もっと後になってからだった。

* * *