6.

 降谷が潜入を開始して五年。潜入してすぐに幼馴染の景光を喪った時は、もう二度とこの薄汚い暗闇から出られなくとも仕方がない、と覚悟していたのに。

 たった一人の名探偵に出会った、それだけでこんなにも世界が動くことになろうとは。それはもちろん、降谷自身の世界もだ。希望は人を成功に導く信仰である、と言ったのはかの有名な奇跡の人だ。希望がなければなにごとも成就するものではない。

 暗闇の中に輝くたったひとつのあかつき。いつの間にか降谷の目の前を彗星のように駆けていく、けして掴まえられない聡明な、うつくしい希望。

 世界中の国家、その諜報と捜査機関を巻き込んだ、黒ずくめの組織の掃討作戦からしばらくは後処理で忙殺されていたが、残党の関係で安室の身分はまだ当分残す必要があるため、ポアロに顔を出した時のこと。

 久しぶりに、テナントビルの階段を上ろうとするコナンに出会した。

 黒ずくめの組織を壊滅させるため、更にコナンはどうしても必要なAPTX4869のデータを手に入れるためもあって、深部まで入り込んで少々どころではないここ一番のすべてを懸け無茶をした結果、どちらもあちこち手当をしている様子を目線で確認して、二人して笑った。まだ春には少し早い季節のことだ。

 二人とも無事は確認していたものの、きちんとこうやって面と向かったのはその時以来だ。生存と目的達成を喜び合って、互いに感謝の言葉を告げる。それから警護は付けてあるものの今のところ残党に狙われることもなく、無事に日常を送れているのを彼の口から聞いてひとまず安心した。

 そうして改めて、口を開く。

「コナンくん。僕たちはまた、一緒に事件を解決したわけだけど…」

「そだね…、……うん…?」

 いつかのやりとりがコナンの頭を過ったのだろう。途端に猫のように毛を逆立てる勢いで警戒心を強めてくる、その様子に苦笑する。

 安室はここに至るまで彼の警戒心を解くことをしなかった。今となっては懐かしいIoTテロの時もそうで、あの時、コナンは安室を協力者にするまでけして車の助手席には乗ろうとしなかった。共に命を懸けたその後も、安室は任務でなければ他の刑事のように、容易く情報を漏らしたりもしない。

 信用しない、それがバーボンという顔も持つ『安室』と共に行動することもあるうえで、彼にとって最も重要なことだったからだ。彼は裏切りを知らない。コナンを、――工藤 新一ほどの人たらしを裏切れる人間など、そう、いない。あのベルモットだとて彼に嘘は言わず、安室と同じく、言えない情報はけして出さず渡さない、というスタンスを取っていた。

 だからベルモットと同じく、気を許してはいけない相手だと彼には正しく伝わっている、ということだろう。それでいい。そうでなくては、本来の姿を知っていようと『安室』ですら上手く使ってくれなくては、彼は今、生きてここに居なかった。それが彼にただひとつ渡せる、信頼という手札だった。

「はは、そんなに警戒しなくていいよ。ただ、君の一日を僕にくれないか」

 訝しげにこちらの出方を覗ってくるコナンに、ね、と首を傾げてただ肩の力を抜いた笑みを返す。もう緊張を持って相対する必要もない。隠すものはないし、今の降谷にあるのは言う必要のないことで、それは彼に全く関係ないことだ。

 瞬きもせずこちらの様子を窺って慎重に言葉を選んでいるようで、彼はおそるおそる口を開く。

「……一日? 何のために?」

「そうだな、君とピクニックがしたい」

「ピクニックぅ?」

 語尾を上げる猜疑に満ちた声音で、じとりとした目すら向けて来た。声は可愛らしいのに、表情と言い方が最高に可愛くない。被っていた猫は完全にどこかに逃げ出してしまっていて、完全に本来の年齢らしさで安室に対面している。

 稚い小さな体に、大人になりかけの精神。アンバランスなものに人は惹かれ易く、更に際立って目映い彼はどれだけの人間の心を奪ってきただろう。こんな彼を見られる機会も、きっともうない。無条件に『子供』に優しくするようなことも、『安室』でしか出来ない。

 胸にじわりと広がる名残惜しさを飲み込んで、ひとつ、ぱちんとウィンクした。

「…君と二人でゆっくり食事がしたいだけさ。僕が作ったものを、いつかみたいにね」

 

* * *

 その日はあいにくの雨だった。

 コナンと初めて出会った日も雨が降っていて、二人の関係の分水嶺となったIoTテロの時もそうだったことを考えると、別れもそうであるべきか。快晴でないのは残念だが、誰にも記憶されたくない身としては、人通りも減って雨のヴェールで目隠しされるのはお誂え向きと言ってもいい。

 ピクニックと称して米花から離れて向かった公園には雨よけに屋根のある東屋がいくつかあり、そこのひとつに二人並んで腰を下ろす。

 ハムサンドだけでなく様々な具を挟んだサンドイッチから始まって、キッシュとオムレツにコブサラダ、いくつかの変わり種のコロッケ、定番の唐揚げにミニハンバーグ、デザートにカットしたフルーツと、それからレモンクリームを挟んだ小さなパンケーキ。その他色々を彼の小さな口に合わせたサイズでふんだんに詰め込んだバスケットを開ければ、この時ばかりは子供らしくわあと歓声を上げて覗き込む。その手にウェットティッシュを渡しながら訊く。

「約束どおり、お腹を空かせてきてくれたかな?」

「うん! 美味しそう、いただきます!」

「どうぞ、召し上がれ」

 このタイミングで食事とセックスに関する俗説を口にしようものなら、きっと警戒心は初対面のとき以上に跳ね上がるだろうけど、という心の中の呟きはおくびにも出さず、にこやかに食事を促した。

 安室の言動には今でも警戒してみせるのに、食事に関してはポアロで慣れたからか、それとも彼の心の奥底まで見透かすような観察眼ゆえか、抵抗なく口にする。この子供は本当に愛されて今まで生きてきたことを、こういう部分で実感した。この子の舌は愛を識っている。おそらく、見栄や上辺だけのものには反応しない。いや、もしかしたら正直に遠慮もなく『不味い』と言ってしまうのかも。

 なんとまあ、傲慢で賢くて生意気で、無自覚に他人に特別感を抱かせやすい子供だろう。しかも腹立たしい気持ちよりも可愛いが先に来てしまうので、大概のことは許してしまう。これは元の体に戻っても変わらないのだろうか。

 用意してきたアイスコーヒーを渡しながら問い掛ける。

――君は、何故自分が特別な子供だと思う?」

「……探偵だから?」

 もぐもぐ小さな顎を懸命に動かしながら考え、見た目と中身が違うから、という当然の返答を超えて出てきた言葉に謙遜はないし、惚けもしない。

「自分で言うかい、それ」

「だって、ボクが他の人と違うところは、そこくらいだもん」

 えへ、と笑って返すその頬を突きたくなって、誘われるように思わず指が伸びた。高校生なのになあ、としみじみ思いながらその猫かぶりの頬を堪能する。その指を遠慮なく幼い指に掴まえられた。ものすごく嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。

「やめて」

「はい」

 小さな体に不相応な目つきと迫力で怒っている様はまるで仔猫の威嚇のようで、これ以上からかうと完全に怒らせてしまうだろう。大人しく指を引っ込める。ムスッとしたまま食事は続けるコナンを、頬杖を突きながら眺めた。

「君は『老いる』ということは、何だと思う」

 安室の先程とは方向性が全く違う問いに、怒りも忘れてきょとんとまあるい地球のような瞳がこちらを見てくる。

「経験を積んで、歳を取ること?」

「そうだね。とても君らしい答えだ。だが、もう少し情緒的に言うと、何だと思う?」

 まじまじと安室の顔を見詰めながらじょうちょ、と口の中でオウム返しに繰り返す彼の返答を待たず、言葉を続ける。

「受け容れることだ」

 ざあざあと降り続く雨にけぶる景色へと視線を向けた。この雨の中でも、どこかから花の匂いが流れてくる。春はもう間もなく、抑えようもないことだ。咲こうとする勢いは、誰にも止められないもの。

「うつくしさがすべてではないことを。むなしさも、愛おしむことも、空の青さを素直に口にすることも、――すべて、覚えて、受け容れること」

 降谷はいつも、受け容れられなかった。

 降谷のために自分の胸を撃ち抜いて死んだスコッチこと諸伏 景光と、FBIが黒ずくめの組織に入り込むために利用され、結果命を落とすことになった宮野 明美、さらにはコナンの機転によって暫く信じ込まされていた、シェリーこと宮野 志保の死。

 それらに関わった赤井との確執がなくなることは今後もない。だがもう、あの男を責められるのは志保だけだ。

 降谷はどうしようもない悔恨と己への慚愧ざんきの念で、一度死んだような酷い喪失感をよくよく覚え、彼らの死を受け容れようと努力している最中だ。

 幼馴染みだけでなく初恋の人の死も、友人達の死も、ただこころの奥底に沈めているだけでいつも燻っていて、自分の代わりに覚えてくれている人間を確認するまでは、メールも消せずに居た。

 降谷がすんなりと受け容れられたのは、江戸川 コナンと名乗る謎多き名探偵の、その存在だけだ。

「君は抗う。『何故』という思考を重ねる。けして諦めない。だが、君のその小さな頭には結果、真実を全て覚えて受け容れる、その『老い』がある」

 探偵は人の心の内側を、真実を白日の下に発いたからには、全てを受け容れ背負う義務があると、彼はたとえ詰られようと黙って受け容れる。言い訳もしない。

 ただ、受け容れた後に許すのは聖職者の仕事で、断罪は探偵の本能かも知れないが。

「子供だろうと大人だろうと、君の持つ、その老成した独特のアンバランスな雰囲気には参ってしまうのさ。僕の名探偵くん」

 そうしていつかのように、きょとんとしている彼の汚れた口の端を拭った。

 ある程度バスケットの中身を減らした後も、しばらく時間が来るまで東屋で会話を楽しんだ。話題はこれから別れが待つ二人にしては、いつもと同じ、とても他愛のないもの。

 沈丁花の、甘酸っぱさを含む爽やかさを持つ香りが、水気と共に香っている。

 人の声が一番綺麗に聞こえるのは、雨の日の傘の下らしい。特に今日のように雨量がやや多く、そして囁くような声だと最も美しく聞こえる。

 では今日なら、一番うつくしいさよならが言えるだろう。

 少しの間は彼の記憶に残るかもしれない。けれど人は、声から忘れてしまう生き物だ。

 そろそろ帰り支度をしようと彼が立ち上がったところで、安室は膝を付き、いつものように彼と視線を合わせる。不思議そうな顔でこちらを見るコナンに、両腕を広げながら訊いた。

「コナンくん、最後に君を抱きしめても良いかな」

 コナンは露骨に嫌そうな顔を返してきた。彼は大人の子供に対する油断を上手く使うくせに、こういう子供扱いは極限に嫌う。まあ、年頃の男子高校生なら男同士のハグなんて嫌だろう。そこをなんとか、と友人を見習って培った警戒心を解く笑みで頼み込む。

「なにもしない、ただのハグだよ。本当に別れがたいだけなんだ」

 胡散臭そうに身を引いて安室を見ていた彼が、しばらくの沈黙ののち瞳を閉じると、はあ、とひとつ深くため息を吐いて。

 眉根を寄せた嫌そうな顔のまま、ん、と幼い仕草で両手を伸ばしてくる。あんなに警戒していた相手に。そういう彼が愛されてきた仕草に、その優しさを愛おしいと思う。

 体を引き寄せ、そうっと抱きしめ目を閉じる。触れたところから体が溶けるような安堵感が身を包んで、心地よさに自然と呼吸が深くなった。

 人は愛情を持っている相手と抱き合うことで、ストレスを解消し癒されるようになっている。肌の柔らかさ、体温の温かさや匂い、なにより鼓動は胎内の音、どんな人間でも落ち着ける音だ。

 残念ながら、さすがに服越しでは彼の心臓の音は伝わらない。首筋に耳を付ければ感じられるかも知れないが、さすがにそこまでの密着は許してくれないだろう。

 けれどいつかの日、ベッドの真ん中を占領する彼を抱きしめて仮眠を取った時と同じように、安らぎを覚える。あのぬくもりを忘れられずに犬を抱いて寝る癖が付いてしまったのは、潜入捜査中の身では失錯しっさくだとは理解していてもやめられなかった。

「ボクが知り合いの子供で良かったね」

 呆れたような、照れくさそうな声が腕の中でぼそりと呟くのに、まったくだ、と同意する。これが彼本来の年齢だったなら、抱きしめるのにはもっとちゃんとした名前の関係が必要になっただろう。

 この子供を抱きしめられるのは、今のこの僅かな瞬きの間だけなのか。本来では得られなかった細い、ちいさな腕。

(僕のさいわい、僕の奇跡)

 いつか見たクリムトの絵のように。金色の海で彼の慈愛に抱かれて揺蕩っていたい。頬に甘美な口づけを貰って、夢見心地にすべてをゆだね、ずっと。危険をはらむこともなく、無防備に腹を、胸を押し付けてしまって、まるで降伏した犬の有様だ。

 そんな相手など、簡単には居やしない。

「こうやって、腕に抱くのは君だけがいいなあ…」

「なんだよ、もー。ボクだってずっと小さいわけじゃないんだからね」

 ぽんぽんとペットをあやすような手付きで背中を叩いてくれるそれに、胸の奥を擽って沸き起こる感情が、呼吸を苦しくさせる。それをため息で逃しながら、安室は寄り添う体をもう少し、強く引き寄せた。

「…工藤 新一くんも、こんなに優しいのかな」

――新一兄ちゃんは、誰にもしたことがないよ」

 照れて怒るか、猫を被って交わすか、と予想して、悪戯心にいつも隠れ蓑に使っていた彼本来の名前を出せば、思ったより真剣味を帯びた声が返ってくる。思わず僅かな距離を取って彼を見た。

「だって知らなかったんだ」

 静かな輝きを持ってルール・ブルーが大きく、まっすぐに安室を映している。

「工藤 新一の父親はいつも泰然自若、理路整然って感じで全然揺れないし、母親は騒々しいけど芯はちゃんと通ってて、見かけよりも全然強い。だからどんな大人だって、弱い部分を抱えて必死に生きてるってこと、想像したことがなかった。大人になればより完璧に近くなれると思ってた」

 何かを思い出したのか彼の青が少し揺れ、堪えるようにくっと一度瞼を閉じ、そして再び開いたときにはもう、感情に乱れはなかった。彼はこの歳で自分の感情すらもこうして、受け容れる。

 子供の大きな青い瞳は、ただ静謐さを持って安室をまっすぐに貫いた。

「でも、弱い部分を持ってひたむきに頑張ってる人の方が強いって、もう判ったから」

 そう言って小さく首を傾けると、ふ、と花の匂いがする空気を揺らしてそっと、しなやかに微笑む。その笑みに、もう充分判っていたはずなのに、今更実感が伴ってきた。

――ああ、君は本当に僕のオム・ファタルだったな)

 警戒を、覚悟を、復讐を、すべて解いて発いて降谷の人生を狂わせていく、恐ろしい男だ。

 なかったことになんか、出来ない。

 映画の中の『脚のない鳥』が一分間の友人を求めたその事実が変わらないように、『安室 透』は一生という何十年もの月日を思えば、この短い瞬きの間だけ生きた『江戸川コナン』を、彼の協力者として在った時間を、到底無かったことには出来ない。

 だって出会ってしまったのだ。

  オム・ファタル、運命の男。

『安室 透』は一生ものの恋をした。

 報われなくても、それでいい。彼は、『江戸川 コナン』は、誰のものにもなったりしないからだ。

 なんて幸せな男だろう。

 二度と交わらぬその道の先でも彼はきっと、安室を忘れない。そう、彼は約束してくれた。それを安室は信じる。

 忘れられないということは、生き続けるということだ。

『安室 透』は『江戸川 コナン』の中で、ずっと生き続ける。彼に恋をしたまま。

 ああまったく。ほんとうに、妬ましいほどしあわせな男だった。

 もうすぐ春が来る。

 目覚めの春だ。復讐という地獄を突き進もうとした男の頬をぱちんと張るような。燦爛さんらんと眩しい光によって、齎された降谷の春だ。

 あの、IoTテロのときの夜明けの光を遠くに思い出しながら、まるで今その眩しさを感じているかのように、目を細める。苦笑のそれにも似たかおはいつもコナンの引き起こすすべてを、その時止めどなくあふれ出る感情を受け容れたときと同じで、二度と会えないだろう小さな体の彼を想い、ただ、愛おしむ。

――わたしが、くらい底のない闇につきおとされて、くるしさにもがくとき、あなたのひかりがきらきらとかがやく」

 わたしの手をひきだしてくれるものは、あなたの心のながれよりほかにはない。

 朝露のようにすずしい言葉をうむものは、あなたの身ぶりよりほかにはない。

 傘の下、手を振って別れた彼の後ろ姿をいつまでも見送りながら、生涯を独りで過ごした詩人の詩を口遊くちずさみ、降谷にしてはめったにしない祈りを捧げる。

 ――君が、どうかしあわせの傍らにいますように。

 固く結ばれたその手が、離れることがありませんように。

 

* * *