8.

 SATによるテログループの制圧が完了したと同時にPCが正常化され、コントロールを取り戻した病院は、行き交う警察関係者や慌ただしく動き回るスタッフでごった返している。

 降谷のサポートは相変わらずの見事な手腕で、新一の足りないところに手を回すだけでなくSATへの突入の合図も出し、無事に複合鍵を手に入れることが出来た。

 あちこち皺の寄って汚れたスーツを叩いて軽く身だしなみを整え、依頼人が無事だったことを確認して病室を出る。

「工藤くん。送っていくよ」

 不意に掛けられた声に、新一の肩がいつかのコナンのようにぴょんと跳ねた。それを見咎めた降谷の眉がわざとらしく上がる。

「さっきまで共にこの病院内を駆け回っていたというのに、随分な態度じゃないか」

「…いやあの、お忙しいのでは……」

「送っていくよ」

 にっこりと安室のような微笑みでもう一度繰り返して、押し通す。さすがに拒否が出来るとは思っていない。往生際の悪い、無駄な足掻きだった。そもそも米花から遠く離れたこの土地で、今警護に就いている公安の人は、きっと降谷が連絡した後だろうから迎えに来てはくれないだろう。事件が解決するまで食事も摂れず疲れてもいる、そんな状態で数時間掛けて新幹線で帰る気力も無いし、今から空き室のあるホテルがあるかも判らないのだ。降谷に送って貰うのがベストだった。

「素直に乗るなら食事を奢ってあげよう。途中で寝てもちゃんと自宅に届けるよ」

「…判りました……」

 空腹と疲労感に負けて、しょんぼりと頷く。これから新一には食事前の避けられない、逃げ場がない車内での説教が待っている。

 説教でぐったりしていた新一も、降谷が選んだ店で久しぶりに、目の前での揚げたて天ぷらを満喫すると気力もまた持ち直した。店に入ったときよりは断然元気になって、車に乗り込む体の動きも大分軽い。

 陽はとっくに落ちていい時間になっている。東都方面に戻る高速も比較的空いている時間で、降谷もスムーズに車を走らせているようだった。

 そろそろ県境に近づいてきた頃合いで、話題が変わる。

「今回の帰国期間は長いのかい?」

 新一の警護は本来降谷がやるような仕事では当然無かったが、帰国期間中の限定であること、未だバーボンという身分が残っていること、なにより新一の複雑な事情がそうさせた。

 そうして毎回、新一がどこに行くにも、その他の要望にも、すべて彼は応えて付き添ってくれた。

「そうですね。大学は休みに入りましたし、依頼も受けたので…」

 以前のように、蘭に会いに行く、という言葉は口から出せなかった。やっと自由に日本に戻れるようになって、せっかく長い休みに入ったのに。

 新一は窓に肘を付いて、夜景が放つ光の流れをぼんやりと眺めた。

 この三年の間、許可された短い期間のすべてを使って毎回日本に戻ってきては、今まで待たせていた蘭に報おうとした。

 蘭もまた、新一に会う為に度々アメリカへと訪ったが、長時間二人きり、という状態は許されなかった。常に行動は監視され、電話で蘭に連絡をしてもその内容はFBIに聞かれていたし、話せないことも多い。

 それに、新一は望んだ時に帰国出来るわけではなかった。この体にはまだ、毒が残っている。志保による後遺症や解毒の研究はまだ行われていて、検査と改善のための投薬は定期的に続いているからだ。

 自由に会うことも話すことも難しければ、蘭にとっては今までとそう、変わらない。それにそれまでは自覚させられていなかった警護や監視のある生活は、とても窮屈に感じられたはずだ。

 そして蘭自身が大学受験の時期と重なったのもあり、アメリカへそう頻繁に来ることが叶わないようになってからは、途端にぎこちなくなった。

 蘭が大学に入学したあとでは、アメリカに来られたのも一度。なにより生活環境がアメリカと日本、国単位で変わってしまえば、会話も合いにくく、別れも酷く辛い。物理的な距離は不安と孤独になることは新一も蘭もよく、充分に理解していて、だからこそお互いの距離の適正な位置を掴もうとしているが、上手く噛み合わず、もどかしく空回りしていた。

 そうして二人は風船のようにふらふらと非常に不確かな状態で、ギリギリその手を繋げている。ふとしたはずみでほどけてしまうような脆さで。

「……何度か。何度か、話し合って。その度上手くやっていけそうな気がするんですけど…よく言われますよ。オレが変わってしまったって。責められてるんじゃないんです。オレと比べて変わってない自分が、成長してなくて嫌なんだと」

『新一の隠し事が新一自身を成長させたことが判るのに、それを教えて貰えないことが、隠されてることが、苦しい。

 私たち幼馴染みでずっと一緒にいて今まで秘密なんかなくて、今回も帰ってきたら話してくれると思ってたのに話して貰えない。普通なら知らない部分があって当たり前のはずなのに、突き放されてるように感じられて、勝手に傷付いてる子供みたいな自分が嫌なの』

 そう、彼女が言う。

 すべてを話してしまうことが良い結果にはならないと知っているのに、全部話して貰うことが信頼だと、愛情だとも思ってしまう。だから、話せないと言うことは、蘭を信用してないということではないか。――その疑念を、蘭は捨てることが出来ない。

「そんなこと、全然ないんですけどね。それにこっちは根っこのとこが変わって欲しくないから頑張ったとこもあるし」

 窓の向こうを見たまま、独り言のようにぼそぼそと呟く声でも、他に邪魔するものがない車内は拾えてしまう。

 こうして、以前から新一のとりとめのない気持ちを聞いてくれるのも、降谷の仕事になってしまっていた。別に共感も、反論も求めていない。ただ、新一の胸が一杯になった時、吐き出すのにこの車内がよくて、降谷の距離感が心地よかった。

「今のアイツには、『そのままのお前でいい』っていう言葉は、逆効果なんです。どうしても受け容れられない。その気持ちは判ります。オレだって色々挑戦して足掻いて、たとえ元の自分からは遠く離れてしまうことになっても、自分を変えたいときに言われたい言葉じゃない。……でも、オレにとっては。そのために、」

 何のために命を懸けてまで、彼女を守り続けたのか。

 新一の好意が蘭を傷付ける、その事実が新一を傷付ける。新一の愛し方は、今の彼女のこころとは合わないのだ。昔は彼女も子供だったからそのまま受け容れられた。だが今は大学に通って視野も充分に広がった成人した女性で、生きている限り、求めるものは変わる。恋愛は、求めるものを与えてくれるからこその関係でもある。

 それでも変わらない、人としての根底の部分を大切にしたいだけ、が、とても難しい。

「今回もちゃんと蘭に会います。でも、長くは一緒に居られないから……顔を見られて元気そうなら、それでいいか、って。もうこれからは、いつでも日本に戻ってこれるんだし」

 新一には待つつもりがある。蘭が精神的に安定するか、『成長』に対して結論を出すまで。それが江戸川 コナンになっていた期間の、埋め合わせでもあった。

「いつも同じことばっか言ってる気がするな。降谷さん忙しいし考えることも多いだろうに、こんなつまんない愚痴聞かせちゃってすみません」

 また自分の世界に入り込んでしまっていた。

 はは、と苦笑しながらやっと降谷の方を見遣った。突き放すでもなく同情するでもない、ただ沈黙を選ぶ降谷の横顔を見詰め、それからふ、と力を抜いた。

 降谷は変わらない。きっと彼にとっては黒ずくめの組織に潜入していた頃が最も激動の時期で、もう今では赤井と同じく、並大抵のことには動じないどころか、新一のような子供の葛藤など、受け止めて包み込めてしまえる度量も余裕も覗える。経験を積んだ大人の男だ。素直に格好良いな、と憧れる。

 今は自分が不安定だからか、降谷のそういう泰然自若なところにとても心が安らいだ。

「今は降谷さんと一緒に居るときが、一番息がしやすい気がする…」

 ふう、と言葉と共にため息吐く。久しぶりの安息感にふわりと眠気がやってきた。

 光栄だよ、だなんて外面のいい取り繕った返事を返してくるのに、このイケメン相変わらずだな、と、じっと見てから。

「オレのことはいいんですよ! それよりも、降谷さんはどうなんです? 恋人はともかく、彼女出来ました?」

 この男の取り乱したところを見てみたい、その一心でにやにやしながら視線を向ける。

 出会いから数年経っても、彼の少し青さを帯びたアッシュブロンドは色が抜けることなくきらきらと輝いて、濃い肌との見た目の組み合わせが最高に良い。それだけで有希子なんかは一時間は見ていられるらしい。今も薄青い夜に染まった降谷の髪が、窓から差し込む道路照明灯の光に照らされ、密やかに美しい色味の陰影を付けている。

 そして丁寧に鞣されたようなしなやかさと艶を持つ上質な革のごとき肌。今日の身のこなしでも充分に察したが相変わらずトレーニングは積んでいるようだ。年齢的に代謝が落ちるはずなのに、顔だけでなく体つきもここ数年全く変化を感じない。常に鍛えてベストコンディションを保っているということだ。

 彼がスーツを着ているときは、有希子でなくても黄色い声を上げる気持ちが判ってしまう。身長と肩幅のある降谷が着こなすスーツ姿は文句なしに格好良い。ボクシングをしているからか、腕だけでなく衝撃を受け止める肩も背筋も意外とがっしりしている。

 さらに新一の警護中は密かに銃を携帯していて、ホルスターの存在を察知したときの有希子の反応はすごかった。ジャケットを脱いでと強請ってはきゃあきゃあ騒いで興奮して、あの時はさすがに母親の血圧の心配をした。もう若くねえんだから、と言った瞬間間髪入れずに背中を叩かれたが。

 元々獲得していたスキルに加えて、ベルモットの傍らに侍っていたのもあってエスコートは完璧、意味深に緩く弧を描く唇と指の仕草ひとつで空気まで染め上げる色気、自分の魅せ方を熟知していて当然のごとく顔の造形まで整っているとなれば、モテないはずがない。

 改めてしみじみと降谷を検分していれば、目尻をあまく弛ませさらりと笑顔で流される。

「さて、どうだろうね。今の僕は工藤くんを無事に送り届ける仕事に忙しいから」

「もう、すぐそうやって話を逸らそうとするー!」

「コナンくんだな。君、疲れるとコナンくんが出て来るの?」

「出てこないよ! ちょっと口調が変わるだけで、コナンは全部丸ごとオレですよ!」

「わかったわかった、眠いんだな。寝てて良いよ」

 適当になされてしまう。コナンの時よりも扱いが雑だ。ぶうぶう不満を訴えるがのらりくらりと躱される。

「……でも、そうだな。降谷さんに彼女出来ちゃったら、オレこんな風に構って貰えなくなるんだろうし……」

 そう客観的に捉えて自分で言った言葉が、己の弱ったこころを酷く抉ってしまった。

 今まで当たり前に優先されて来たが、それは警護対象だったからだ。もう降谷の仕事は終わってしまった。「どんな連絡もして良い、応えられるかどうかは判らないが」と、食事前の説教中にも言われたけれど、でももう優先はされないだろう。

 それはそうだ。新一は家族でも、もちろん恋人でもない。

 降谷に彼女が出来たら、今までのように新一が蘭に会いに行くまでに励ましてくれたりもしないし、帰りに落ち込む新一を海や景色の良いところに連れて行ってくれたりもしない。新一は自分に付き合わせてしまう罪悪感に駆られることもなくなるが、その分孤独に襲われるだろう。

 そこまで想像して、うぐ、と胸に広がる痛みを堪える。親愛でも気持ちを拒絶されることは、今はとてもつらかった。

 ダメだ、精神が下降気味でなにを考えてもダメージを受けてしまう。ここは空気ごと変えるしかない。こう、いくら降谷でも何か言わずにいられない感じで。

「……あ。彼女出来なかったら、このシートはオレのものでしょ? オレまだこの特等席に座ってたいからさ、作んないでよ」

 なーんて!

 にゃーんとコナンの頃に培った、被った猫ごと満面の笑みで笑ってみせる。それとは対照的に、降谷の表情がスン、と落ちて真顔になった。

 ――あれ。

 一瞬の出来事だったらしく、瞬きひとつの合間に降谷は表情を取り繕ってしまったのか、何もなかったように運転している。

 妙だな、と小首を傾げ、いつもの推理スタイルで顎に手を当て降谷の表情を探ろうとするが、その新一の明け透けな視線を意に介する様子もなく、彼はぽつりと呟いた。

「……うん、もういいか」

「なにがです?」

「もう、どうでもいいかなって」

 今までになく吹っ切れたような、イケメンが手加減なしの爽やかな、――ただし妙な気迫のある笑みを見せて突然そう告げる。

「工藤くん、ちょっとドライブに付き合って貰おうか。遠回りするよ」

 手早くシフトレバーを操作すると、ぐっとアクセルを踏み込む。長年の彼の相棒はウォンと一吠えして、スピードを上げていく。

 夜の二十二時も過ぎれば車もそこまで多くはないお陰で、車線変更も降谷は手慣れた調子で多少強引にやってしまう。

「え、いやオレ眠いし家帰り…って、決定事項かよ!!」

 降りる予定だった出口が通り過ぎていくのを見送り、返事を返す間に更にスピードが増して行くのに新一はうわずった声を上げる。

「ちょ、ちょっと降谷さん!? スピード出過ぎじゃねえ!?」

「こいつのトップスピードは君も体感しただろう。まだまだ行けるよ」

「いやあのスピードは緊急事態だったから許されたことでえええ!!」

 過ぎ去っていく景色があまりにも速く、思わず縋るものを探す。

 緊急時はアドレナリンが出っぱなしだからか恐怖心も少し鈍くなっていることを考えれば、今は眠い分、余計に速く感じるのかも知れない。

「工藤くんに戻った途端、怖がりになったな。コナンくんの時はこの車で、モノレールとすれ違ったじゃないか」

「あん時も死ぬかと思ったよ!!」

 必死の形相でシートベルトを握りしめて叫ぶ。

 今と違ってフロントガラスも割れていて走行中の音がそのまま響くし、痛いくらいの強い風が直に当たるし、コナンのサイズではシートベルトなど意味がなくて、衝撃で窓から飛び出てしまいそうになり、安室の腕に押さえ込まれた。まあ、その後車自体がビルから飛び出して、コナン自身も車外に出ていたが。

 助手席というのは運転席と違って、何かが起こっても自分ではコントロール出来ない恐怖感がある。そこに強引な車線変更が合わさって、しばらく新一は喚く羽目になった。

「いやホント、突然なに? どうしたんです降谷さん……」

 すっかり眠気が去ってしまった。段々速さに目が慣れてきて恐怖感も落ち着いてくると、代わりにどっと疲労感が増してぐったりとシートに身を預ける。

 降谷は新一の問いに答えない。速度を保ったまま、他の車を次々に追い越しながら夜の高速を走り続ける。その反応のない横顔に内心唸った。これはまずい。

「ドライブは判りましたけど、どれくらい付き合えばいいんです?」

「…そうだな、場合によっては朝までかな」

「ええ…? 家帰って休みましょうよ。降谷さんも疲れてるでしょう」

 表面上は穏和だ。さすが自分の感情をコントロールする術に長けている人だと思う。新一に気付かせないように、自分の内側で荒れ狂っているものを抑え込もうとしているが、そのヒヤリとした剣呑な圧が僅かに漏れている。新一が察してしまうほど、ということは、それほど大きな感情なのだろう。

 ――これは、相当怒っている。

 食事前の説教中とは比にならない。つまり、新一はそうとは知らずに、降谷の地雷を踏んだ。

 さっきから新一の危機感が警報を鳴らしている。やはりあの悪ふざけが良くなかったのか。謝ろうと口を開こうとした瞬間、降谷が先に話し出す。

「工藤くん。僕も警護の仕事から外れたし、今はプライベートだと思って言わせて貰うけど」

 降谷は正面を向いたまま、思ったより硬い声で言う。それを聞いて説教を受けていたときと同じように、助手席のシートの中で膝の上に手を揃えぴんと姿勢を正す。

「は、はい」

「僕は本来、他人の恋愛を応援するような柄じゃない」

「えっ」

「そして付け入る隙があるのなら、その瞬間を逃すタイプでもない」

「あっ、ハイ。それはなんとなく…」

 降谷を刺激しないようにおそるおそる、言葉を返す。

 東都水族館、観覧車でのことは今でも忘れていない。あれを赤井から聞いたとき今後安室と変に拗れないようにしようと思ったが、その後安室がIoTテロの時コナンの地雷を敢えて踏みに来たことで、目的のためなら躊躇わないタイプなのだと理解した。

 新一の反応をちらりと見た降谷は珍しいほどあからさまにぐっと眉間に皺を作り、言う。

「君は僕に対して無防備がすぎるな」

「え、また説教…?」

「説教じゃない。もはや苦情申し立てだ」

 くじょうもうしたて、と復唱する。そんなに怒ってたのか。謝るなら今しかないと、座席に座ったままだが頭を下げる。

「さ、さっきは調子に乗ってすみませんでした…! 冗談なのでオレの戯れ言は気にせず、どんどん彼女作って下さい!」

「そうじゃない」

「はい…」

 ぴしゃりと撥ね除けられた。違ったらしい。それでは、今まで新一のぐだぐだした愚痴とかその辺に付き合わせていた方か。柄ではないらしいのに。警護の仕事上言うに言えなかったと思うと、本当に申し訳ない。

「君は懐に入れた人間にはとことん甘くなるし、それを含めて雑だし、そんな風に目の前をふらふらされて充分耐えたと思うよ、俺も」

 彼はステアリングを両手でぐっと一度強く握りしめ、ひとつ、深いため息を肺の底から吐き切ってから。

――ところで工藤くん、僕たちはまた共に事件を解決したわけだけど」

 今までに何度か聞き覚えのある言葉の出だしを、口にした。

 へ、と思わず口からこぼれる。鳩が豆鉄砲を食ったような間抜けな顔をしている自覚があった。だが頭の中は充分に混乱している。何故いま、その言葉を耳にするのか。混乱しつつも頭はめまぐるしく記憶を遡って、ぱっと視界が開けたみたいに初めて聞いたその時の情景が脳裏に浮かぶ。

 その続きの言葉は知っている。知っているけれど、今のこの工藤 新一の姿の場合、洒落にならない台詞になってしまう。いや、コナンへ向けての方が、他の追随を許さないほど問題発言なのは確かなのだけれども。

 まさか、言うつもりなのか。――今、ここで?

 いや待て、待ってくれ。呆気にとられていた状態から急激に焦りを見せた新一よりも速く。

「僕たちはセックスをするべきだと思うけど、どうかな?」

 わざとらしいほどの、春の木漏れ日を含んだそよ風のように爽やかな笑顔をあの時のように向け、彼ははっきりと言い切った。

 口まで開けてぽかんとしていた新一は、ぎこちない動作で一度口を閉じた後。

「は……はぁあああ――!?」

 目を大きく見開いて狭い車内に響き渡る大声を上げた。

「じ、冗談…?」

「だと思う?」

 このタイミングで? と降谷が悪気のなさそうな笑みを湛えたまま、小首を傾げる。

「なんで今!? もう安室さんじゃないだろ!?」

「何故?」

「なぜ、って…?」

 質問に質問を返されて、新一の思考が一瞬止まる。

(何故、って、それは)

『安室』なら、すべて嘘だからだ。消えてしまう彼が、同じく消える『コナン』に言うのなら、それは『なかったことになる』からだ。

「江戸川 コナンは自分だと言ったのは誰だ」

 まるで新一の頭の中を読んだかのような、降谷の硬い声音に、ぞわ、と背筋に冷たい悪寒が走る。

 手加減するつもりはないらしく、彼は状況を理解しようと動揺する新一の思考の隙に言葉を挟む。まるで余計なことは考えさせまいとするかのように。

「なくなりはしないさ。君と僕が出会ったこと、協力者であること、なにより君が僕を『大切な人』に据えたこと、すべて。

 なにより、君が忘れないと言ったんだ。『江戸川 コナン』は『安室 透』を忘れない、と」

 それは確かに言った。言ったが。それはつまり、どういうことだ。本当はどういうつもりで、『安室』は『コナン』にあの台詞を言ったのか。

「いやいやちょっと待って下さい、あの時はその、必要があったから……じゃない、んです…?」

 完全に混乱を来しながらあわあわと両手を顔の横で振り、次第に口籠もっていく。命を懸けて成し遂げたいことがあって、役に立つコナンに敵になって欲しくない、という目的があったから、言ったんじゃなかったのか。

 確かに新一は自分が好奇心の塊であることは理解しているが、これは、好奇心のまま聞いても良い話なのか。真実をあらわにする探偵でも、これはまざまざと白日の下に曝け出してはいけないのでは。

 引きつった表情で降谷を見ている新一に、彼はとろりとした秋波に染まる視線を寄越し、口の端を撓らせると思わせぶりに告げる。

「『腕に抱くのは君だけがいい』」

――は、」

 息が止まった。

 今、視線で心臓を撃たれた。それくらいの衝撃が胸を突いて、呼吸が出来ない。

 薄暗い、高速の照明で照らされた車内でも判るくらい、急激に顔が赤くなっているはずだ。胸の内側で心臓が全力疾走していて、じんわりと汗が滲むほど顔が熱い。

 大人の男怖い。今声に色香が融けていた。日本の『恋人』の醸し出す蠱惑感、危険物過ぎる!

「い、いやいやいやあれは犬とかペット的な、アニマルセラピーじゃなかったのかよ!?」

 なんとか車中に漂う妖しい空気を変えようと、声を絞り出して問い掛ける。

「犬ならハロが居るし、大体ハロの方が君の代わりだ」

「えっ」

「君を抱えて寝たら、柔らかくて温かいのが心地よくてね」

「はぁ!?」

 いつのことだ。コナンの時は確かに体力が尽きることが多くて、気が付いたら誰かに運ばれていたりしたものだが、添い寝まで許したことはない。場合によっては事案だぞ、と疑いの眼でじとりと睨み付けるが、降谷は飄々としている。

「あれ、覚えてないかな。和野氏の遺言状を探した事件から笹島誘拐事件まで発展したときだよ。君はベッドの真ん中で寝てたから、抱え込んでベッドの中に入ったんだ」

 笹島、と呟いた途端頭の中に一気に記憶が蘇って、ああ!、と思わず声を上げる。

「あの事件か! っていうか、安室さんあの時ちゃんと寝てたの!?」

「数時間だけど、ちゃんと一緒に寝たよ。君のスマホも充電してあげてただろ」

「アプリも勝手に入れてたけどな!」

「だからその翌日、施設の地下ラボでちゃんと合流出来たじゃないか」

 それはそうだが、勝手にスマホに触って良いとは誰も言ってない。先に言えばこちらもしぶしぶでも了承したかも知れないのに。唇を尖らせむくれながらあの時のことを思い出す。

「あの時、安室さんは寝てるオレのことほっぽって、仕事に出掛けてたんだと思ってた…」

「本来僕が関わることのないはずの案件だったし、そもそも預かってる君を一人にする方が問題だろう。情報はこちらに届けさせたさ」

「本当かなあ」

 嘘つきだからなあ、と言えば苦笑した降谷が片手を伸ばしてくる。

 なんだ、とその手の動きを無言で見守っていれば、褐色の大きなてのひらを持つ器用な指先は、『恋人』の話を初めて聞いた時のような艶めかしい仕草で、するりと新一の頬を撫でていって。

「離れがたいと、言ったはずだよ」

 そうして、こちらをまるで掛け替えのない大切ななにかのように、柔らかく慈しむ目と目が合う。

 どっ、と心臓が胸を内側から今度こそ殴るような強さで跳ねた。

 瞬間、新一は頭を抱えてぎゃあと悲鳴を上げる。顔が赤くなるどころではない、血液が沸騰するレベルで体中が熱くなってなんだか猛烈に、恥ずかしいような、居たたまれないような、耐えがたい感情に襲われた。

(指が、目、が)

 なんだあの指先、それから眼差し。そんな、愛おしくてたまらないもののように。

(こっちは今コナンじゃないんだぞ、コナンがいくら好きだからってオレをそんな目で見なくて、も……?)

 いや、待て。彼は今まで、コナンを新一自身だと言ったからだ、と告げていて。なかったことにはならないと、――だからそれは、つまり。

――ッ!」

 出した結論に蹲って意味もなく叫び出したい衝動を必死に堪える。どっどっ、と頭の中にまで鼓動の音が強く響く。全身がとても熱い。オーバーヒートしそうだ。

――オ、オレ降りる!!」

「ははは、ここ高速だけど。死ぬよ」

 ちょうど計算されていたかのようなタイミングで今まさにICを通り過ぎ、混乱を極める新一の視界を高速道路の遮音壁の向こう、一際派手にライトアップして目立つ休憩が出来る宿泊施設が横切って行った。それを見送った後、首の骨が悲鳴を上げそうになるほど勢いよく運転席を振り返って、叫ぶ。

「……ゆ、誘拐! 同意ないからな!? 速やかにオレを自宅に届けない場合、高木刑事に通報するからな!!」

「残念ながら警察は縦社会なんだよ、もう未成年じゃない工藤くん」

「そういうとこ、ホンット腹立つな!!」

 もどかしい気持ちを握った拳で自分の太腿に叩きつける。

「もうやだ一人になりてぇ! 帰る!! 降ろせってば!!」

「おっと、足に力が」

「なんでそこでアクセル踏むんだよ!!」

「高速なんだから、ブレーキ踏む方が危ないだろ」

 まさに正論を返されたが、今はそれどころではない。そもそも迷宮なしの名探偵をここまで使えない状態にしておいて、誰の所為だと思っているのか。脳は熱に弱いんだ、使い物にならなくなったらどうしてくれる。ただでさえ、コナンの時に無理を繰り返しているのに。

 狭い車内で暴れるわけにも行かず、車を降りることも出来ないので、ただひたすら顔を覆って降谷の視線から逃れる抵抗しか出来ない。そうしているうちに今度は長い沈黙が辛くなってきた。

 騒ぎ疲れ、俯きぐったりと肩を落とした姿勢で、ぼそぼそと呟く。

「……もーわかった、わかったから、せめてどこが目的地かくらい教えて……」

「このまま行けば横浜には着くかな。そこから首都高に乗って戻ろう」

 本当は静岡辺りまで行っても良いと思っていたけれど。と涼しい顔で続ける降谷に、こういうところが信じられないんだよなあ、と思う。新一を揶揄っただけなのでは、と猜疑心に満ちた視線を送る。

「ボクトイレー」

「わかったわかった。誰に電話しても良いから、いきなり消えたりしないように。一応まだ、警護中なんだ」

 むっすりとした表情で肘を窓に付け、頬を手のひらで潰して懐かしい台詞を言えば、彼は穏やかな苦笑を返した。

* * *

 埋め立て地を臨む沿岸に立っていた。

 自販機の傍に駐車して歩道の柵に体を預け二人、何もかもが青い夜明け前のルール・ブルーの中、暗い海と建設中のビルのシルエットを眺めている。

 結局ICを降りた横浜でも明確な説明がないまま、夜景を見たり休憩もして再び東都へ戻ってきたとき、時間はあと一時間ほどで夜明けを迎える頃だった。

 ここに辿り着くまでに完全に体力を使い果たした。昼に病院内を走り回ったというのに、本当に朝まで付き合わされる羽目になるとは。対する降谷はけろりとしていて、体力の差を痛感する。

 正直、もう眠ってしまいたい。眠ってしまいたいが、謎があるなら解き明かさなくては。

「降谷さん」

 遠くに鳥のさえずりが聞こえる。瞬きごとに夜の青さが白んで、互いの表情もおぼろげに見えるようになってきた空気の中、それでも新一の呼びかけに予見していたかのように落ち着いた動作で振り向いた彼をひた、と捉える。

 そうして、意を決して言葉を発した。

「どうして、オレだったんです」

 誤魔化しも、嘘も要らない。真実だけが欲しい。そう、視線に込めて降谷の目を真っ直ぐ見据える。

 降谷は新一の視線から目を逸らさず、きちんと受け止めた。一度、瞼を閉じてからひとつ、深く呼吸をしてゆっくりと開く。髪と同じ色をした睫毛が作る格子の帳から現れた薄花桜うすはなざくらの瞳が、新一へ向けられる。

 だが彼のひとみのながれたような眼に込められたものは、新一が己にも見る恋情の熱だけでなく、断罪の強さがあった。高速を走っていた時にも感じた冷たい圧迫感を目の当たりにして、とっさに身構える。

 見詰めるを通り過ぎていっそぎりと睨み付けるように降谷は新一を正視し、鋭い語気で放つ。

「君が僕をあばいて、『大切な人間』にすると、愛したからじゃないか」

 四つ葉のクローバーを差し出して、自分のものになって欲しいと言ったからだ。

 そう告げられて、何度か二人の間で口に出さずとも符牒のように繰り返される言葉の、切っ掛けを思い出す。そうだった、コナンは彼に『大切な人になる気になった?』と、問い掛けた。あまりに安室が、降谷が孤独な道を往こうとするから、自覚を持てとそう、言ったのだ。

 あなたはどこにもいない人ではない、コナンにとって命を懸けられるとても、大切な人なのだと。

 弱い部分を持ってひたむきに頑張る人の方が強いと確かに言ったけれど、支えがあっても良いはずだ。事情を知っている自分であれば役に立てる。そういう感情があったことは本当だ。

 その言葉が降谷の琴線に触れてしまったのか。それとも最後の一押しか。恋愛というものが、求めるものを与えられることによって成り立つ部分もあることを、今の新一はとてもよく理解していた。

 抱えた激情を抑え込んだ、だが硬さの残る声音で彼は続ける。

「真実を話すことは快感だ」

 そうでなければ、犯罪者が自白などするものか。どんなに口を重くしようとも、言うことで楽になりたいのが人間だ。新一の受けた三年間の処遇も突き詰めればそうだし、蘭に一生言えない秘密を抱えると決意したのは自分だというのに、勝手に息を苦しがっているのは真実を話せないからだ。

「嘘を吐くなら二割と言うけれど、僕たちは口から出る言葉のほぼ全てが嘘だった。

 ――けれど君が発くから。

 そうなったら安室 透の口から出ようと、話す真実は降谷 零のことになってしまう」

 確かにコナンは安室の真意を探ろうと、腹の探り合いは日常茶飯事のようにした。だが彼に上手いこと躱されることも多く、潜入中の彼がそんなに簡単にぼろを出したことがあっただろうか、と考えて、違う、と即座に否定する。

 ああそうだ、思い出せば確かにコナンとして安室に言った。

『隠されたものほど発きたくなるし、オレに触れるってことは、証拠を残すってことだ。思っている以上にね。あなたの息づかい、表情、動き、あなたが気付いていない反射的なクセ、言葉がなくてもあなたが証拠だと思わないもので、オレはあなたを解いてしまうよ』

 コナンが安室という謎を解けば解くほど、出て来るのはただの『降谷 零』、その人の真実だ。そうしてIoTテロの時だけではなくそれ以後も、何度か行動を共にするたびちらりと見せてくれた謎を嬉々として解いては、彼の真実を垣間見た。

「真実を話すことが快感なら、真実を発くこともまた、そうだ。一種の快感の交歓をしているにすぎない」

 視線の強さは変わらないまま、彼は新一をただ、正面から見据えて言う。

 降谷は新一に、コナンの頃の発言を思い出させたいのだろう。だがそもそもあれは安室の、『セックスをするべきだ』という発言が元になっていて――

 そこまで思い至ったところで思考を打ち切って、ぱちんと、一度蝶の羽ばたきのように瞬く。

 つまり。

 コナンが、新一が彼の謎を解き、安室が、降谷の真実を口にすること。それを彼は一種の『セックス』だと言うのか。

 もしそうなら。

 今までコナンが、新一が安室を、降谷を相手にしてきたことは腹の探り合いではなく。

「…えっ…、嘘だろ!?」

 がつんと頭を殴られたときのような衝撃が走って、くらくらと目眩がした。疲労感も合わさって、このまま気を失いそうだ。

 ふらりと体が傾いだのを、降谷が腕を掴んで支えてくれる。体勢を整える為に引き寄せられた拍子に降谷の顔が近付いて、新一の耳へそっと、囁いてきた。

真実快感はクセになる。そうだろう?」

 言葉にまで含まれているかのような甘美な毒を流し込まれるのに、新一の肩がびくりと跳ねる。新一にとって謎を解くことが快感だというのは、誤魔化しも出来ないほど本当のことだったから。

 それに小さく喉を鳴らして薄く笑う吐息が、首筋をくすぐっていく。降谷は掴んでいた手をしなやかな動作でするりと新一の手首まで辿り、手首の内側の筋からてのひらをその指先でぐるりと戯れるように触れたあと、指の関節を摘まんで離れていった。

――あの、IoTテロの時。こことは別の場所でだけど、同じようにあの埋め立て地をのぞむところに居た。今みたいに夜が明ける直前でね。確かにあの時まで僕は明けない暗闇を進んでるつもりだった。あの組織を壊滅させるまで、ずっとそこから出ることはないと思っていたよ」

 波止場の方へと体ごとを逸らし、そうして動揺する新一を置き去りにして埋め立て地の建設中のビル群を眺めながら、降谷は続けた。

「でも夜が明けた」

 彼は未だ夜の気配が残る遠くを見ている。その時目にした、鮮やかな朝陽がその視界には見えているかのように眩しそうに目を細め、その光を愛おしくその瞳の中に閉じ込めるかのように瞼を閉じる。

「その時、なんの根拠もないが僕は理解した。必ず君は謎を解いてくれるだろうと。僕が期待していようが、そんなことは一向に関係なく」

 降谷が振り返って新一を見る。空の下、海との境目にオレンジの帯が出来はじめていた。今から太陽が昇ってくる、その前触れのうつくしいグラデーションが徐々に世界を明るくさせていく。

 夜明けはすぐそこまで来ていた。

「僕が君を選んだ、だって? ――いいや、違う。僕に君以外を選ぶ余地なんてなかった。僕の目を奪って、よそ見をさせないのは君の方だ、工藤くん。

 そうして君は、僕の人生を狂わせていく」

 降谷の精悍に整ったかおを自嘲の苦い笑みが彩る。

 熱情はすべてを狂わせる。

 公安のエース、『ゼロ』であった、彼ですらも。

「君に結末を委ねたこと。僕が選んだのは、それくらいだ。それは『安室 透』として、『江戸川 コナン』を名乗る不思議な子供に抱いた感情についても」

 潜入捜査中の彼にとって、コナンという不確定要素に頼るその決断は、苦渋というだけでなく自身の厳しい訓練を経て得た能力自体を疑うことだったに違いない。それでも彼はコナンを、新一を信じてくれた。

 それと同じ重さで彼のこころの一部を預けていてくれた。

 互いに正面から向き合って、見詰め合う。IoTテロでの最後、『はくちょう』の軌道を変えるために無茶をしたあの時のように。

「僕はもう『安室 透』じゃないし、君も『江戸川 コナン』じゃない。今の工藤くんに触れるには、その関係にちゃんとした名前が必要になる」

 片方に恋情があるなら、なおさら簡単に触れることなんて出来はしない。

 眉を寄せて、手が届かないものへのもどかしさと、やるせなさを湛えた瞳が新一のすべてを飲み込むように見ていた。

「ああ、そうだ。俺は理由もなく君を抱きしめる権利が欲しい」

 はっきりと欲望を口にする、そこに居るのはたった一人の子供にこころをつたない指先で無遠慮に触られて、人生を狂わされた男。

 あの時『コナン』とのハグを許したのは、『安室』でしか他人に触れられないのだと、そう新一が思ったからだ。

 降谷の立場は、ずっと誰かを疑わなくてはならない。降谷だけではない、公安であるということはそういうことだ。降谷として安易に誰かと触れ合うことの出来ない彼が、これからも『日常』を生きる誰かとしてあるべく、『安室』最後の『日常』というぬくもりを、普通とは少しばかり外れているけれども、子供のコナンから得ようとするのなら、それもありだろうと思ったのだ。特別優しくしても理由が要らない、自分とそう変わらない時期に米花からいなくなる存在はその時の彼にとって、とても都合が良いんじゃないかと察したからだ。

 すべての形ある関わりを捨て、孤独に生きる彼のこころに少しでも長く留まるぬくもりであればいいと、そう思って抱きしめる為の腕を伸ばした。

「僕が君のしあわせを望んでいることは、疑わないでくれ。すべての人間には等しく平和に安全に日常を過ごす権利があって、それを守るのが僕の使命だ。君のしあわせは僕が望む『日常』だよ。誰よりもしあわせでいて欲しいと願ってる。

 ――僕がうっかり付け入る隙がないくらいに」

 彼は訓練を受けた有能なエージェントだ。付け入る隙があるなら、タイミングが合ってしまうなら、するりとチャンスをたぐり寄せるのは呼吸をするように自然に行えてしまう。

 降谷はその巧みな話術で蘭との不和で揺れる新一を丸め込むことだって出来た。それをせず、こうやって判り易く説明してくれているのは彼の誠意、うそつきの降谷が新一に見せる、恋情だ。

 新一の目の前で、夜が明ける。空の端から太陽に燃やされて、青は白く、透明に空気に融けていく。

「君が引導を渡してくれ」

 君の中の『安室 透』を殺してくれ。そろそろ、秘密を殺す頃合いだろう。

 絶命を望む苦しげな表情で、声を震わせて、彼が言う。

 ブルー・モーメントを裂いて現れた朝焼けに照らされた美貌が、目の前にある。

 金色の、うつくしい狼がそこに居た。

 青の隙間から射してくるさんたるあかつきが、降谷の僅かに青さを持つアッシュブロンドをまばゆく輝かせ、同じ色をした睫毛の先までをきらきらと映射する。

 彼の瞳の中にも射したその輝きは、まるで星の瞬きのように光を弾いて、その中に自分が映り込んでいるのかと思うと、星空の中に居るかのような不思議な感覚に陥った。

 だから手を取られたことに気付いたときにはもう、遅い。

 指に鋭く熱い、ヒリつくような痛みが走って我慢できず声を上げた。

「ちょ、っとなにすッ…、いたたたたた!! やめろって、痛いってば!!」

 引き離そうと掴む腕を叩いたり振り回したりと暴れるが、新一の必死の抵抗などものともせず、降谷は新一の左手の薬指に、指の関節よりも小さなサイズのものを強硬に、無理矢理通していく。

「これで、蘭さんに引っ叩かれてこい!」

 ごり、と関節の骨と皮が擦れる感触がして、靴擦れのように皮膚が傷付きめくれたのが判った瞬間、その言葉と共に腕を解放される。

 急いで取り戻した左手を胸に抱え込み、痛みで涙目になりつつ薬指を確認した瞬間、驚きで目を瞠った。

「いってぇ……はぁ!? なん、なんだよこれ!?」

 薬指に燦然と輝くのは、朝陽を受けてこれ以上なく堂々たる威風でおさまる、プラチナのリングだった。

 宝石は付いていないが中央にそれを模したような彫りと、六角形と三角形で織り成す緩やかなラインのカット面が一周していて、よりいっそうきらきらと輝いては存在を主張している。

 慌てて外そうとして関節で引っ掛かった。指のサイズには合っているが、新一の関節の骨よりは小さいため、簡単には外せないのだ。なにより、傷に触れると猛烈に痛い。

「なんでだよ!?」

「それを外すのも、そのままにするのも、君の自由だ」

 食って掛かった先、降谷は淡く切なさを乗せた表情で微笑んでいた。その表情を目にして、新一はなにも言えなくなる。

「外したときは、捨てていい。そうだな、海にでも投げてくれ」

 それで『安室 透』は完全に死ぬさ。

 じんじんと鼓動の速さで痛む左手を掴み、黙る新一の頭をコナンにしたように軽く撫でて、降谷は陰りを宿した苦笑をした。

 

* * *

 家に帰り着いた途端、力尽きて自室のベッドではなくリビングのソファに倒れ込んで数時間後の昼に、空腹で目が覚めた。

 食事の前にシャワーだと起き上がろうとしたところで、左手の痛みと違和感で思い出す。寝転がったまま、ぼんやりと左手を顔の前にかざした。

――びっくりした)

 昨日の最大のトピックは間違いなく病院のテロだと身を潜めていた時に思っていたが、そんなことはなかった。それからが驚きの連続、今までの世界をひっくり返され、寝る前にテロ事件のことなど思い返すこともない一日だった。昨夜だけで心臓と頭に掛けた負荷を思うと、次の検査が恐ろしい気もする。

 かつて、コナンの時に潜入捜査官の精神状態を心配したことがあったが、まさかあんなことになっていたとは。はは、と乾いた半笑いが出てしまう。笑い事ではないが、笑わないととても付いていけないのだ、感情が。

 人としての、当たり前の触れ合いを無防備にすることなど出来ない彼が、唯一見つけ出した、相手に触れることなく得られる慰めのようなもの。それは彼にとって秘密のことで、それを口に出させたのは新一の所為だ。

 今思えばコナンの時あんなに手を繋ぎたがったのも、ただ触れ合いたかったのかも知れない。コナンが新一に戻ったらもう触れられない、安易に近づけない。そういう未来が判っていたからこそ、頭を撫でたり頬に触れたりしたし、別れにハグを求めた。

 たったそれだけの思い出の中のぬくもりで、彼はどれだけ耐えてきたんだろう。孤独の夜を、一体どれだけの数過ごしたのだろう。

 そして、もしかしたらこれからも。

(本当に、それでいいのかよ。降谷さん)

 いいはずがないことは、本人が一番理解していただろう。それでもどんな嘘つきでもこころにだけは嘘をつけないから、こんなことになってしまったのだ。

 『安室』が消え降谷として話すようになって、隠し事がなくなって心開いた新一と気が合えば合うほど、二人の間の永遠に縮まらない距離が如実に浮きぼりになったはずだ。手を伸ばせば繋ぐことが出来る、けれどけして交わらない平行線を歩いていた。

 蘭のことで手一杯のはずの新一が、それでも自分の中に場所を作って手を差し伸べたくなる、どこか不安定な男。服部や赤井ではこうならない。あんなに完璧で、そうありたいと常に努力もしていて頼もしく、事実降谷ほど優秀な人間などこの日本では数えるほどなのでは、と思うくらいなのに。

 関節の太さよりも小さく作られた指輪を、右手の指でぐるぐる回しながら考える。擦れた関節の皮膚に靴擦れのような痛みが走るが、手当ては風呂から上がってだ。

 関節を過ぎた部分では余裕のある作りだからワセリン、それでも外せないなら糸を使うしかない。ただし、糸を使う場合、二人掛かりの作業になる。一人では絶対に外せない、そんな作りにした理由も考えるべくもない。降谷が言っていた通りだ。深いため息を吐く。

 判っている、彼は切っ掛けを与えてくれたに過ぎない。

 ここで新一が思考停止してあっけなく降谷になびくことがあろうものなら、確実に軽蔑されるだろう。それはただの逃げだ。彼の愛した探偵ではない。

 彼はこの指輪で、二人の間になにが起こるか見定めろ、と言外に言っているのだ。

 これで二人の仲が壊滅的になるのとは別に、予定外のハプニングを解決した恋人たちの絆が固まるのは、ドラマなんかでも定番だ。敢えて憎まれ役を買って出たお人好しにでもなるつもりか。

 他人の恋愛を応援するような柄じゃない、と言ったのは降谷自身だろうに。

 今までずっと黙って、どれだけの感情を抑え込んできたのか想像も付かない。彼の今までを思えば痛ましく、胸を締めつけられるような息苦しさが喉を締め付けた。

 もし、この指輪を見た蘭が。

 傷つくだけでなく、怒りでも悲しみでもない表情を一瞬でも浮かべたときには。

 上げていた腕を顔の上に降ろして、再びため息を吐く。

 何故、ダメだったのだろう。

 蘭の笑顔は新一の幸せだ。幼い頃からそうだったし、そうやって生きてきた。

 だが今二人の息が苦しいのは、そこでは生きていけないからだ。海の生き物が、陸では生きられないのと同じで。

 蘭はそれでも新一と共に生きようと、置いて行かれたくないと、無理をしている。彼女らしさを壊そうとしているのは蘭本人ではない。

 新一だ。

 いつだって新一は、守りたいが為に誰よりも早く走り出す。炎の中喪った人を教訓に、取り零さないように必死になってしまう。それなのにいつの間にか、大切なものを置き去りにもしてしまっていたらしい。

 二人のすれ違いが目に見えるほどに如実になってしまったのは、今の状態を維持し続けることに二人が疲れてしまったからだ。

 一度離れてしまえば己を見つめ直せて良かったのかも知れないのに、別離を恐れる二人はきっぱりと離れられなかった。いまやその関係を成り立たせているのは、幼馴染み時代からの情。

 蘭が健やかである、という事実は新一にとっての何よりもの報酬だ。

 それを守ることは、恋人でなくても出来ることに、降谷の生き方を識って気付いてしまった。

 そして今、蘭を笑顔にしてやれないのならば。泣かせてしまうのならば――

 その数日後、蘭の通う大学のキャンパスで工藤 新一が白昼、衆人環視のまっただ中、蘭から激しい平手打ちを食らっていた話題はSNSをその日の夜までざわつかせた。

 

* * *