9.
仕事を終えた降谷がその通知に気が付いたとき、着信から数時間経っていた。
プライベートのスマホには、もしもに備えて怪しまれないよう一般人と同じようなアプリを入れているが、実際の利用頻度は低い。だから誰からかなど、予測する必要もなかった。
通知をタップした先、開いた画面に現れたのは。
左の頬を赤く腫らし心底ふてくされた顔をした、誉れ高い日本のホームズの写真だった。
つい笑いそうになって、未だ庁舎の中だったことを思い出し、ふっ、と息を詰めて耐える。
負けず嫌いが律儀にも、結果報告をしてくれたらしい。鏡越しに撮っているから、捨てられることなく左手の薬指にちゃんと指輪が通ったままなのが確認出来た。
確かに『引っ叩かれてこい』とは言ったものの、白昼堂々とは予想もしてなかった。新一が足繁く蘭の所に通っていたことは周知の事実で、新一はフェミニストだ。別れるにしても、蘭に叩かせて『新一が悪い』という、世間的にも分かり易い状態に持っていったのだろう。蘭が間違っても、他人に謂れのない中傷を受けないように。
よく見れば女性ならではの長く、尖った爪に引っかかれたのか、頬にみみず腫れのような血の色をした線が走っている。彼の顔をこんなに容赦なく叩けるのも、きっと幼馴染みの期間を持つ蘭だけに違いない。
愛しげに目を細め、写真に映った、新一の赤く腫れた左頬を指先で撫でる。
ああ、念入りに手当てをしてやらなくては。写真を撮った後に彼がした手当はおそらく適当だろう。万が一にも跡に残ってずっと大切に思い出されても困る。
新一の気持ちが自分の方へ傾く可能性があるなら、降谷はもう、容赦はしない。
慣れた手付きで連絡先を呼び出してコールする。電話に出てくれないかも知れない、とは思ったが、数回目のコールがぶちりと途切れて相手に繋がった。
車に乗り込みながら、降谷は安室の時のような軽くにこやかな声音で問い掛ける。
「やあ名探偵、歯は無事だったかい?」
『……おかげさまで! 蘭は拳で殴ったりはしなかったので!』
「でも口の中は切っただろう」
もご、と通話の先の新一が口籠もる。この調子なら食事もちゃんとしていないだろうし、腫れた頬から熱が出ているかも知れない。新一の中ではとても可愛い彼女だったかも知れないが、蘭は都大会で優勝経験のある空手の有段者である。ただの平手打ちでも相当な威力があるだろう。
「今から行くよ。その責任は僕にあるから食事の準備と、ちゃんとした手当てをしよう」
『え、ゴエンリョシマス……』
「明日君の左頬だけが、サッカーボールみたいに腫れ上がってても良いなら僕も放っておくけど」
しかもその場合、首や耳も痛めているだろうから三半規管や自律神経辺りに支障が出る。真っ直ぐ歩けなくて階段から落ちて大事故になったらどうするつもりだ。
スマホをハンズフリーにしてエンジンを掛けながら言えば、ぼそぼそと新一が返してくる。
『いーよ、ちゃんと冷やしてるし…』
「それでも、だ。ちゃんとこの目で大丈夫なのか、確認させてくれ」
『………わぁーったよ』
声に心配でたまらない、という心情をこれでもか、とたっぷり乗せて言えば、しばらくの沈黙の後、しぶしぶとした返事があった。ダメだこの子、本当にチョロい。身の内に入れてしまった人間だろうと、降谷には下心がこれ以上なくあることはもうとっくに思い知っているだろうに、こんなにも容易く家に入れようとする。
駐車場から車を出しながら食べたいものがないか問い掛け、そのまま話し続けて新一の気を逸らしていく。そうして目的のスーパーが見え始めたタイミングで、話題を変えた。
「ところで工藤くん」
『……また変なこと言おうとしてるんじゃないですよね?』
警戒心は一応残っていたらしい。非常に結構。だがこれからは手加減なしで行くことにしているので、彼の言う変なこともたくさん言うつもりだから、慣れて貰うしかない。
駐車スペースに車を駐めサイドブレーキを引き、見えない相手に微笑んで見せながら、口を開く。
「今度星を見に行かないか。君の生まれた日の星空を、一緒に見てみたいんだ」
安室の頃には彼が子供だったこともあって、とうとう実現出来なかった。それが頭にずっと残っていて、だが抱きしめたいと思うのと同じく、成人した大人が夜、遠出をしようという誘いをする場合、降谷の方に恋情がある分やはり友人という関係では誘いづらく、遠慮していた。
けれど、それももうする必要はない。
そして新一も降谷が今、この誘いをする意味が判らない訳じゃないだろう。
『ボクが大人になって、もっと別の誘い文句が聴けたときには、もしかしたら、万が一にも考えることもあるかもね?』
コナンの幼い声でそう言われたことを、降谷は絶対に忘れないと決めていた。そういうバリエーションなら幾つもある。今の言葉は新一に合わせた初級編だ。これからは首を洗って、震えて待っていて貰いたい。どろどろに溶かしてやろうじゃないか。
エンジンを切りながら、新一の返事を待っていれば。
『……っ、オレは! 蘭と別れた直後なんだよ!! そんなすぐ誰かと出掛けられるわけないだろ、バーロー!!』
怒鳴られた後、ブチッと乱暴に通話を切られてしまった。嵐のように激しく過ぎ去ったその剣幕に、ステアリングに額を付けくつくつと笑ってしまう。
電話越しだからもあるかも知れないが、防犯ブザーは鳴らされなかったし、家に来るなとも言われなかった。
さあ、今からあの子の舌に、彼の知らない愛を教えに行かなくてはならない。
end.