それから新一が無事に受験を終え高校生になっても、空の上での探偵デビューをすませた後も、安室との付き合いは続いていた。

 会う頻度はそれほど高くはない。けれど、来るたびに手作りの菓子と、作り置きの料理を大量に置いていってくれる。そして会わなかった間の新一が関わった事件について、遠回しでネチネチくどくど説教をし、天狗になりかけている鼻を取り返しの付かないことになる前に、と片っ端からバッキバキに折っていくのだった。

 それでもどうしても、事件と聞いたら新一は走り出してしまうのだけど。

 付き合いも二年目を迎えれば互いに気心が知れて、距離もそこそこ近くなった。素の彼は本当に時々しか見られず、未だに彼自身の謎は解けないどころか、解いた傍から新たな謎を発見するの繰り返しで、もしかしなくても情報を小出ししては、それに新一が飛びつくようにてのひらで転がされている気がしている。

 獣人としてのスキルを抜きにしても、情報収集・観察・洞察の高さは本物で、知識も豊富、それに会話だけで相手の心理を誘導し、必要な情報を得てしまうくらいの、優秀な男だ。

 そして料理も得意で、ストイックに減量が必要なボクシングをやっていて、なおかつイケメンで、さらには耳と尻尾がある。完璧か。特に耳と尻尾は本当にずるい、演技と判っていても悲しそうな顔をされれば絆されるし、気が付けば大抵のことを許してしまう。神はなんておそろしい武器を彼に与えてしまったのか、と新一は慄くばかりだ。だが新一の中の負けず嫌いも黙ってはいない。そういう隙のない相手の鼻を、いつか明かしてやろうと虎視眈々と狙っているところだ。

 新一にとって安室は兄というほどは気の抜けない、友人というにはミステリアスで謎ばかりの、それでもその能力の高さは自分もそうありたいと思わせる存在だった。  

 リビングで、久しぶりに工藤邸にやって来た安室の手土産であるレモンタルトを一切れ口にして、首を傾げる。

「安室さん、なんかレモン系の菓子持ってくる回数多くねーか?」

 そうでなければベリー系の、酸っぱさが甘みを中和するような。不思議に思いながら問い掛ければ、安室は意味深な笑みを湛えてコーヒーのカップを新一の傍らへ差し出してくる。

「好きじゃない?」

「いや、美味しいし、甘すぎなくて好きだけど。何でかなって」

「良かった。実はお菓子の類いを作ったのは君に出会ってからなんだ」

「なんだと…?」

(このクオリティを、この二年で?)

 レモンだけでなくヨーグルト、クリームチーズが合わさったふわふわのメレンゲが口の中で溶けたのを、ごくりと飲み込む。メレンゲの上のレモンの輪切りは蜂蜜漬けだし、サーブする前に泡立てた生クリームにベリー系ソースまで手慣れた様子で添えてくれた。正直お店で提供されてもおかしくないレベルだろう。

 フォークを手にしたまま信じられない気持ちで見詰める先で、安室も自分の分のコーヒーを手にして新一の隣に座ってきた。

「そうか、新一くんはネロリが何の匂いなのか知らないのか。ネロリはレモンの花の匂いだよ。5月頃に咲く清潔感のある、爽やかだけど甘さを残している春の、君の匂いだ」

 当たり前のようにソファの背中側から新一の腰へと腕を回して引き寄せて、慣れた仕草で新一の首筋へと顔を寄せる。最初の頃はプライバシーの侵害だと断固拒否していたが、フェロモンの変化を確かめる為だとか、獣人は人間の体臭等は意識しないよう嗅ぎ分けを覚えて育つんだとか、色々と言いくるめられ、二年経った今では抵抗する気も起こらずされるがままだ。

「……匂い、まだする?」

「するよ、ちゃんとね。大分はっきりしてきたかな。色々混ざってるけど、まあ主にネロリだね」

「うあー」

 目を閉じ思わず意味のない声が出る。

 毎回フェロモンの匂いを嗅がれるので毎回訊いてしまうけれど、段々着実にオメガフェロモンが増してきているらしい。あれからずっと検診は受け続けていて数値での検査結果も知っているけれど、こうやって改めて言われると、完全に受け容れているとは言い難い自分の変化が補強されてしまう。新一が一番恐れていて、一番実感のないヒートが訪れるにはまだ体が出来上がっていない、というところが救いか。

 それでも未だに納得の行っていない自分の変化に対して逃げたりせずに済んでいるのは、安室のお陰だろう。ただでさえ反抗期かつ思春期のまっただ中にあって、ただの人間である新一の両親には判らないオメガというものについて、それとなく安室が支えてくれているのは感じていた。

 タルトをまた一口食べる。ネロリの匂いというものを多分新一は知らないが、安室の言葉では酸っぱさの中に苦みがあるレモンの匂いとは全然違うようだ。

 それにしても、結局質問の答えを貰ってない。

「オレからネロリの匂いがするから、レモン食べさせんの?」

「まあ、そうだね」

「それって何か意味あるの?」

 コーヒーカップから口を離して、安室がにっこりと微笑む。

「どうだろう」

「またかよ、この秘密主義!」

 フォークをテーブルの上に投げ出して、新一の膝の上に投げ出されたいつも綺麗に手入れされている安室の尻尾をわし掴むと、憂さ晴らしにぐしゃぐしゃにしてやった。犬科の獣人だから毛が太めで硬くてチクチクするかと思っていたが、安室の毛質は案外細めで柔らかく、起毛を思わせるふわふわの手触りが最高なのが癪に障る。もふもふしていると常備しているブラシを当然のように渡されたので、そのままブラッシングし始めた。

 これでも獣人の勉強は随分前からしているし、定期的に情報をアップデートもしている。それでも安室の行動の意味が判らないから質問したというのに。確かに謎を解くのは大好きだが、これは謎ではなくて、未だに本名すら教えてくれない安室自身への興味だ。

 新一だって判っている。彼が教えてくれないということは、新一のためでもあることを。たまに新一の周囲で見掛ける人間が、監視ではなくて警護をしてくれていることも。彼らはそうやって、身近な人間達を守るのだとも。

 少々荒い手付きでブラッシングしていると、安室が新一のブラシを持つ手にそっと自分のてのひらを重ねてきた。

「拗ねないで、新一くん。…もっと優しくして」

 低すぎない、けれど熔ける甘やかな声で耳に直接密事のように囁かれて、うひゃあと叫んでブラシを取り落とす。囁いた吐息が吹き込まれた耳を咄嗟に押さえ、近付いていた体を離した。心臓がばくばくと激しく打つ。安室はたまにこうやって色気を滲ませては、すぐ顔を赤くする初心な新一を揶揄うのが本当に心臓に悪い。

「何言ってんだよ!!」

「どうして? 本当のことだろう」

「そうだけどさ、言い方!!」

 口元に手をやって妖しく唇を撓らせる安室が、新一の耳たぶをしなやかな指で弄ぶのを避け、完全に離れようともがくが彼の腕は緩まず、余計に力を入れられて互いの体が密着する。そうして空いた手で胸に引き寄せた新一の頭を撫でて来た。

「よしよし、君はこっちの方が好きだったね」

「言い方――!! 子供相手みたいな態度はやめろ!」

 こうやって度々新一を揶揄っては煙に巻いてしまう。頭を撫でる安室の腕を掴んで引き剥がし、顔を上げて安室を見る。

「なあ、本当になんで?」

 レモンの菓子のことだけじゃない、それを含む今までもずっと重ねてきた質問をまた、繰り返す。嘘も誤魔化しも見逃さず真実だけを見抜こうと、彼の瞳をじっと覗き込むように見詰めた。

 獣人の中でも、人間と共存する生態を選んだ犬科と猫科の獣人達は無意識にだが人間に対する愛情が深い。特に犬科の場合は群れで生活する性質を持っている分、家族や仲間意識のある相手から触れ合いなどの愛情を得られないと、不安定になるという。こうやって新一との接触が多いのも、多分彼の中での庇護対象である自分からの信頼や愛情を欲しがっているのだろう、という想像をしているのだけれど、なんだかそれだけではないような気がしている。

 教えては貰えないが、新一が不躾に踏み込んで彼の謎を解くのを、彼は嫌悪しない。無茶をすればそれはもう咎め、叱責するが、純粋に探偵としての新一がどこまで出来るか、その頭脳がどれほどのものか、それを見届けるのを楽しんでいるようにも見える。それは期待だと思う。そして新一はその期待を裏切りたくないと、思っている。

 新一の瞳を真っ向から受けた安室は視線を逸らすことなく、思慮深い深い色をした青を向けてきた。それから先程引き剥がした手を再びそっと新一の頬へ伸ばしてくる。褐色の長い指が新一の右の目尻を傷付けないようふわりと優しく、羽毛のように触れるのに、反射で瞼を片方閉じた。

「なんだよ?」

「初めて出会ったときも思ったけど。きみの瞳は綺麗すぎて危ういな」

「はァ!?」

「好奇心できらきらしてる」

 新一の頬を捉え、間近に詰め寄った安室が吸い寄せられるかのように陶然とした表情で覗き込んでくる。そうしていつもの匂いを嗅ぐ仕草で前髪から、こめかみ、頬、そして指で触れた目尻にも鼻先が触れていくけれど柔らかい感触も伴っていて、それがなんなのか、新一は母親のお陰で嫌というほど知っている。これは、もしかして匂いを嗅いでいるのではなくて。

(キス?)

 驚いてまじまじと安室を見る。鼻先が触れ合う距離で安室が眩しいものを見るように目を細め、淡く微笑んでいるから、新一はぱちんと瞬きした。なんだこれ。なんでこんなことになってるんだ。

 安室は、新一の頬を捉えたそのてのひらでゆっくりと撫でた。

「君が獣人なら、きっと猫だろうな。だが、ちゃんと覚えておくといい」

「痛っ!?」

 突然、完全に油断していた新一の頬に激痛が走る。咄嗟に痛みの走る頬へ手を当てれば、安室が新一の頬を抓っていた。段々容赦ない力になってきて、新一は逃れようとじたばた暴れるが、腰に回った腕ががっちりと掴んで離さない。

「好奇心が過ぎる猫は、死んでしまうよ。――それで、数ヶ月前の話になるけど、優秀な君の頭脳はきちんと覚えているだろう」

(あ、これ、説教の流れだわ)

 一切笑ってない安室の瞳を見て、はは、と引きつった笑いを返した。

 このくらいにしておいてやる、と一通りの説教を終えた安室と連れ立って夕食の用意に取り掛かっていたら、おもむろに安室が話し出す。

「僕はまたしばらく来られないから、本当に気を付けてくれ」

「わーってるよ!」

 サラダにする予定のトマトを洗いながら返した。これを潰さないように切るのは新一にとっては大変、とても、この上なく難しく、あまりやりたくない作業なので、集中力を乱すようなことは極力しないで貰いたい。

「毛利さんを今度はトロピカルランドに連れて行くんだって? 水族館の二の舞にならないようにね」

「それはオレだけじゃどうしようもないっつーか………善処します」

 圧のある笑顔を向けられたので、犯罪を起こしているのは新一ではないのだが、首を縦に振る。水族館の事件でも蘭より事件を優先して返却を忘れていた携帯を弁償することになってしまった。今はまだ謎を解くのに集中しすぎて詰めが甘い自覚はある。

 それに、一応この体はオメガという爆弾を抱えているようなものだ。フェロモンに関しては処方された薬を飲んでいるから、動物に囲まれるようなことはもうなくなっているけれど、いつ新一の体が急激に変化を起こすかは判らない。

 そう、『びっくり』するようなことが万が一にでも起こらないように、過ごさなくてはいけないのだ。

 そう思っていたのに。

 蘭と遊びに行ったトロピカルランドで新一は、事件現場で見掛けた怪しげな黒ずくめの男の後を追い、いかにも犯罪だと言わんばかりの取引現場を目撃した。

 取引を見るのに夢中になっていた新一は、背後から近づいてくるもう一人の仲間に気づかず、頭を思い切り殴られてしまう。地面に倒れ、意識が朦朧とする中その男に強引に毒薬を飲まされ、目が覚めたら……。

 体が縮んでしまっていた。

 ――そして耳と尻尾が生えていた!

* * *