「さて、今日は第二特異点、セプテムまでの確認だね」

 書き換えが終わった報告書の齟齬がないか、最終確認のために立香はダ・ヴィンチのアトリエに来ていた。

 七つの特異点が発生したことによる、大きな時間のゆらぎが他の歴史に波及した関係で、終わったはずのグランドオーダーはまだ、もう少し続くらしい。

 新宿に発生した特異点を解決して戻ってきた時には、カルデア内の空気は若干、変わっていた。

 特異点修復に慣れているはずのスタッフたちを始め、沙汰が決まるまでは、と厚意で残ってくれていたサーヴァント達の雰囲気に以前のような緊張感が増し、言葉にしなくても以前と比べて頻度は下げられていた魔術や鍛錬の特訓も、以前とほぼ同じような様子で再開されている。

 世界は未だ定まらない。

「そういえばこの間の新宿の、アレ、どうなったんだろ…」

 報告書といえば。立香はつい最近のレイシフトで負った精神的犠牲を思い出した。忘れていたいけれどなかなか忘れられない、思い出す度恥ずかしくて悶絶しそうになる、アレのことを。

「どれだい?」

「…………俺が女装したヤツ……」

 なんでよりにもよって男二人がノリノリだったの? 俺の気持ち分かってくれるの二人だけじゃないの!?
という立香の主張は大人の笑みで躱されてしまった上、やっぱり戯れを嗜むアルトリアオルタがダンスに誘ってくれるという騎士道精神をみせてくれたお陰でとんでもない事故が起こり、立香の精神は犠牲になったのである。

 ああいうとき写真を撮りたがるところとか、人で楽しんでいる時の口調とか、アルトリアオルタは時折、ギルガメッシュに似ているような感じがする。王とは立場が同じなら、かくも似るものなのか。王とは…。

「ああー、アレね! アルトリアオルタのお陰でバッチリ、データとして提出するとも!」

「ウワアアア!! カルデアの皆に行き渡っただけじゃなく、国連のお偉いさんも見るとかー!!」

「大丈夫! 魔術協会の人間達も見るよ!」

 ダ・ヴィンチがキラキラした笑顔で親指を立ててくるが、立香の精神的ライフポイントはゼロだ。瀕死である。

「全然大丈夫じゃない…」

 カルデア内だけでなく、変なところにまで広まってしまうのか。いや、このSNSが発達した時代、これは文化祭の女装コスプレと思えば広がり方はまだ、こちらの方が範囲が狭い。しかもいつまでもネット上に写真が残ったりしない。そうだ、こっちの方が傷は浅い、浅いはずだ…!

 机に突っ伏して思い出し羞恥に耐えていた立香に大笑いしていたダ・ヴィンチが、笑いを収めて口を開く。

「さて立香、そろそろアレをしようと思うんだが、体調はどうかな? メディカルチェックの結果は悪くなさそうだけど」

「あ、はい。問題ないよ」

 姿勢を正してダ・ヴィンチに頷き返す。そもそも本題はこちらだった。

「よし。それじゃあまだ再来週のスケジュールは決めてなかったから、その辺りで調整してみよう。レイシフト先はオルレアンだ」

 新宿でも起こったが、外的要因や夢の中、レイシフトのミスなどで立香がサーヴァントとはぐれ、一人きりになる事態が無視できない頻度になってきたので、異常事態に対応出来るよう、マスター単独での演習を行うことにしたのだ。本来、現在のカルデアでは余計なレイシフトは認められていないが、ゆらぎを修復する名目に紛れ込ませる。

 特異点の修復をしていた頃から野営の知識など、魔術の勉強と共に学習してきた。サバイバルに近いキャンプの知識を吸収する方が、魔術の成果より芳しかったのには呆れられたが、そこは一般人なので仕方がない。だからか、先日あったバレンタインでもお礼として、気持ちだけではなく技術もいくつか授かったし、ロビンからは御守り代わりといいながら、『その時代の貨幣に換えられる価値があるもの』として、とても大切にしていたであろう記念銀貨を渡されている。もちろん、あれはロビンの心そのものなので、絶対に一枚も欠けさせるつもりはない。

 特に大変なのはスパルタクスの手枷を外す訓練で、未だに十回に一回上手く行けば良い方だ。

「開始はグリニッジ時刻の午前九時、二十四時間掛けて単独で目的地に到達するのがミッション。二十四時間というのはきみを一人にする場合の限界時間で、それを超えるなら達成は困難として強制的に退去させる。

 到達時間を計るものではないので移動手段は問わない。ゆらぎの修復という名目のために気配遮断したアサシンが共にレイシフトするが、万が一の事態以外に手出しはしない。ガンドの使用は可、でもトラブルは避けること。これは特異点修復のレイシフトではないからね。こちらも意味消失しないよう細心の注意を払う以外は、モニターし続けるが緊急時以外特に口出しはしない。ここまでで質問は?」

「ありません」

「よろしい。では、今回こなすべきタスクについて説明しよう―――

 次の機会があるかは判らないので、できるだけ多くの項目を実習しておく。方角の確認方法、ガンドを打つタイミング。持って行ける治癒魔術の巻子本スクロールはひとつ。手に入れておくべき薬草。威力は低くても結界を張って野営地を防衛すること。野営や怪我の手当はもう慣れているし、食事に関しては、食べられるものの確認と、見慣れているものに似ていようと、初めてのものを口にする際気を付ける項目も理解している。今は毒などに耐性があるとはいっても、それがいつ消えてしまうものなのかは判らないのだ。

「まあでもきみの場合、現地で食事をしている分、抗体は出来やすいんじゃないかと私は考えているんだけど」

「そうなの?」

「数値化するとはいえ、魂だけが時代を飛ぶ訳じゃないからね。アレルギーの心配は少しあるかな」

「ああ…そうか、昔の方がそういう原種? に近くて、成分が強いこともあるのか」

「そういうことだね。だからレイシフト先では体調管理に一番気を付けて。医療スタッフにも言われたかも知れないが、弱っているときは無理に食べなくても良い」

 注意事項を自分のタブレットでも確認した。あとは頭の中でイメージトレーニングも何度かしておこう。

「今回はこんなところかな。ブリーフィングは前日にもう一度やるから、覚えておいてくれたまえ」

「はい」

 覚えるべきことをただ頭に叩き込むので精一杯で、やっと魔術の世界に慣れたところだ。まだまだ出来ないことの方が多い。

 立香が一番最初、強制的にレイシフトをした冬木ではオルガマリーと行動を共にして、指令塔という存在を間近に見られたことは幸運だった。そうでなければそんなところから躓いていた。己の未熟さを痛感する度、立香は何度も震えながら判断を下していたオルガマリーを思い出している。

「あ、そうそう。これは一日掛かりのミッションだからギルガメッシュ王に付いて来ないよう、伝えるのを忘れないように。彼はこういうのを楽しむタイプだから、一応ね」

 突然そんなことを言うダ・ヴィンチに、立香は首を傾げた。

「いや、付いてこないでしょう…忙しいし」

「えー? だってきみの夜は彼が独り占めしてるじゃないか。何をしてるのかは知らないけど。知らないんですけど~! せっかく部屋の鍵について相談を受けたのに本人はあんまり部屋にいないなんて、ちょっと一体どういうことなのかな?」

 ニヤリ、と思わせぶりに笑んでくる。あ、これは面倒くさいやつだ、と思ったときにはダ・ヴィンチは向かいの椅子に座り、テーブル越しにぐぐっと前のめりになって訊いてきた。

「それで?」

「それで、とは…」

「最近の、君の夜の時間について。何がどうなっているのかを、純粋な好奇心だけで聞きたいなって」

 うふふと笑うモナリザの美しいこと。まるで後光が差すようだ。全く、自分の美貌の威力を充分に知っている人たちときたら、簡単に美しさを武器に宝具展開してきて、本当にずるい。

「ダ・ヴィンチちゃんは自由ですね…」

「ふっふーん、まあねー! 縛られてちゃ良い芸術には出会えないからね!」

 別に隠すことは特にない。ただ、立香だけが彼と過ごす夜の時間を特別に、楽しみにしているだけで。

 説明しているときの、伏せた赤い瞳に掛かる、あの金色の睫毛が白磁の肌に影を作るその艶やかな美しさだとか、自分の工房だからか少し寛いだような表情が醸し出す色気だとか、全てをみたひと、と言われるだけあって聞かせてくれる話のどれもが興味深く、また得意気な子供のようなところだとか。どれもがいつも新鮮で、何度知ってもまだ足りず、もっと一緒にいて彼を知りたいと、勝手に立香が思っているだけだ。

 その気持ちがどこから来てるかということは、ちゃんと理解している。

 そういうことはもちろん言わず、ただ事実だけを語った。ダ・ヴィンチは途中言葉を挟まず大人しく最後まで聞き終わった後、ふんふんと頷いてから話し出す。

「そうだね。きみは日中何かと忙しいから、夜の方が時間が空いている訳だが…まあ、そんな単純な話じゃないだろう」

「えっ、違うの!?」

「きみは…なんというか、そのままでいて欲しいような、もうちょっと頑張って欲しいような…この一筆を足すべきか、そこに手を加えて良いのは自分なのか…ああ、成長の過渡期が齎すジレンマだよねえ」

 微笑ましいというよりは、哀れまれているような優しいモナリザの微笑みを返された。なんだかこういう表情をされることが多い。リアクションが平凡過ぎてつまらない、とかだろうか。

「彼も別にそのままで良いんだろうけど、いや、どうかな。私のような人間に智慧の果実を与えられるのを良しとしているのか、それとも自分が影響を与えないようにしているのか…。

 うーん。でもなあ、他でもない、カルデアに貢献して下さっているギルガメッシュ王のためだ。このダ・ヴィンチちゃんが僭越ながらちょっとだけ、フォローするとしましょう!」

 数秒ほど悩んでいたけれど、ダ・ヴィンチはあっさりと悩みを手放した。基本的に害がないなら面白い方向に転ばせるのがこの人だ。

 背筋を伸ばしたダ・ヴィンチは、いつものように微笑みをたたえて立香を見る。

「さて、人間が人生で最も時間を費やしているものは何か、知ってるかい?」

「…睡眠?」

 基本的に睡眠は六時間から八時間が良いと言われている。人間の生活で、睡眠以外にそれだけ長い時間を使うものはない。

「そう。人生八十年とすると、睡眠時間はその三分の一と言うのが定説だ。年数でいえば三十年、結構寝てるね。では睡眠はいつ取るか? それは人それぞれだけど、世の中の八割くらいの人間は大抵夜に眠るんじゃないかな。

 つまり、睡眠とは基本的に夜の時間だ。―――そういうことなんじゃない?」

 人間の生は短い。その短い時間をギルガメッシュは貰い受けると言ったのか。彼が現界している間、立香の人生の中で短くて、最も長い夜の時間を。だが。

「そう言われると、眠る時間は辛くない程度に少し減ったけれど、でも…王様にとっては全然足りてないんじゃないか!?」

 今の状態ではその何割かしか使ってないし、ギルガメッシュは立香に教えるばかりで、断然立香の方が得をしている。たまに話の途中でつい寝てしまったときだって、朝まで起こさず毛布を掛けてくれる人だ。

「本当に今のままでいいのかな? 何かおかしいよね? もっと俺は何か王様にするべきでは…」

「それは気にしなくて良いと思うよ。今はただ準備期間だからね」

「準備期間…なんの?」

「それは私の口からはちょっと言えないなー! でもきっと準備期間が終わったら、ごっそりきみの睡眠時間を持ってくつもりだと思うね。だからきみも、そのときになったら存分に支払うといいよ!」

 とても楽しそうにきらめく笑顔を向けてくるダ・ヴィンチの言葉に、一体なにをさせられるのか物凄く不安になってきた。ウルクで忙しくしていた王様の姿を思い出す。それこそ寝る暇もないくらいに働いて、うっかりうたた寝したら死んでしまった。つまり睡眠不足は死…!

「さすがに連日徹夜は無理だ…」

「連日? いや、さすがにそれはないだろう。魔力のバランスがおかしくなる」

 青くなっていると、けろりと否定されて安堵する。良かった。王様は過労死の辛さを知っている。

 立香の忙しく変わる顔色を見守っていたダ・ヴィンチが、晴れやかに笑って言い放った。

「うんうん。やっぱり思ってた通りみごとな食い違いがあるけど、まあ良いか!その時になればイヤでも判るし!」

「わあ、なんて綺麗なグッドスマイル…」

 なにをやり遂げたんだ。立香には判らなかったがその時には判るらしいので、せいぜい心構えをしておこう。

 改めてダ・ヴィンチは顎に手をやり立香の顔をじっと見詰めながら、そうか、ギルガメッシュ王か、と呟いた。

「キャスターとアーチャー、そのどちらへの切り替えも容易くしてのけるのに、きみとは秩序で向き合いたいんだろう。きみは基本的にどんなサーヴァントとも上手くやっていけるけど、やっぱり相性があるからね。

 ―――いや、きみと出会ったのがあの姿だからかな?」

 そう言われてみると確かにどちらも同じ人物なのに、ギルガメッシュと言われたら、立香にとってはキャスターの姿を思い浮かべる。こちらの世界のアーサー王と言われてアルトリアオルタの方を思い浮かべてしまうように、馴染み深いのがそちらなのだ。

「きみと出会った、きみしか喚べない、今や歴史の修正力によって実際のその死に様さえ変えられてしまった、冷酷で残虐な暴君の賢王たる姿。それが彼だ。

 賢王が愛したウルクがどのように勇猛果敢に滅亡に対し立ち向かったか、それを直接知る人間は今ではもう、君とマシュしかいない」

 ダ・ヴィンチの言葉にはっとする。

 そうだった。『三女神同盟』のまでの被害は置き換えられるが、ティアマトが起きたことで引き起こされた被害は修正され、なかったことになった。だから助けられなかったシドゥリも、なにも覚えてはいないけれど命は助かったのだ。

「彼は裁定者。本来なら、君のような無力で弱い人間とは相容れない存在…共に居られないはずだ。その王様がよく、自分から来てくれたものだね。さらにはきみに厳しく対して、育てようとしてくれてる」

「自分から…って、俺が召喚で喚んだからじゃないの?」

 そうでなくてはどうやってカルデアに来るのか。英霊とマスター、互いの合意によって初めて召喚の儀式は成立し、マスターの喚び声に応えてくれるのがサーヴァント。そういうもののはずだ。

 首を傾げて問えば、悪戯を思いついたときのような顔でふふんとダ・ヴィンチは笑う。

「おや? 立香、忘れたのかい。彼はその気になれば自分でやってくることが出来るんだぜ。無理に顕現すればすぐにでも消滅しかねないほどの負担は掛かるだろうけど、ちゃんとした召喚儀式の手順を踏んでいる場所になら、難易度はかなり下がる。マーリンみたいにね。ギルガメッシュ王は自分の座に繋がろうとする、幽かなきみとの縁をたどってカルデアまで来て、ただ待ってればいい。

 そこできみがようこそー、って召喚サークルを開くなら、そりゃあ入るよね。私なら入る」

「英霊召喚ってそんな感じなんだ!?」

 思わず突っ込んだものの、あっ、と我に返る。

「もう。ダ・ヴィンチちゃん、そうやって嘘か本当か判らない話をするの上手いなあ。王様、ここに来る前はエレシュキガルの手伝いで忙しくしてたって言ってましたよ。だからカルデアにわざわざ来ることはないんじゃないかな」

 いけない、つい本気にするところだった。こちらがなにも知らないからと、時々からかうのは本当に酷い。

「ああ、彼は冥界の王になるんだったね。そうか、この世界の彼の座はそこなのかな」

「俺より、ダ・ヴィンチちゃんの方が座には詳しいんじゃないの?」

「もちろん私は万能だけど、他人の座事情なんてよくは知らないよ。知ってるのは地上のことくらいさ」

「またまたー、ご謙遜を」

 あははと二人して笑う。

「話がずれたな。だから彼は、きみに恐れられるよりは尊敬や敬愛を捧げられていたいんだね、ってことさ」

「それは…確かに俺は王様を尊敬してるけど、まさか王様の方がそんな風に思うなんて…」

 あんなに自信に満ちた人が、立香からの気持ちだとかを気にするだろうか。考えてみるけれど、一向に実感が湧かない。ギルガメッシュは自分の判断が絶対だから、他人の評価なんて気にはしないはず。

「そうかな? 間違ってないと思うけどねえ。だってきみが必要だと望めば、宝具を惜しみなく見せてくれるだろ? そもそも、冥界での二択ぐらいで……おおっと、これは後が怖いな、やめておこう」

 演技臭い仕草で口を覆って、ダ・ヴィンチは口を閉じた。

「まあ、サーヴァントは基本的に、マスターとの繋がりを大切にするものさ。それが彼の賢王だろうと、きっとね」

 もちろん、私もね。

 重ねられた言葉に立香は笑顔になる。そうだったら嬉しい。マスターというか、小間使いなのだけれど。

「きみがいなければ、人類の文明未来を築く英雄王の仕事は台無しだ。

 この世界線の人間達が最終的に自滅の道を選んだのならまだしも、人間達の認知の外で行われた人理焼却は、今まで人の営みを見守ってきたギルガメッシュ王が望む結末じゃなかったはず。

 それでも、滅亡の運命に抗うかどうかをウルクの民たちの判断に委ねたのは、さすがと言わざるを得ない。あくまで未来は人間のもので、彼が決定することではないのさ。

 結果、ウルクの民たちは抗うことを選んだ。ギルガメッシュ王はそれに応えた。足りない部分をきみに託してまで」

 ウルクの民たちが滅亡を受け入れても、ギルガメッシュはそれを認めるつもりだったと、演説で言っていた。だが、ウルクの民はそうしなかった。だからギルガメッシュもその決断を喜び、ただ、それに全力で応えたのだ。ウルクのために。

「きみはギルガメッシュ王が『王』として誕生した意味、時間を超えて生き続ける理由、その守護者とも言えるかも―――なんてね」

 ふふっ、と鳥の羽ばたきのように笑ったダ・ヴィンチは、ぱちんと器用にウィンクしてみせた。立香も同じくらいの軽やかさで笑い返す。

「まあさすがに守護者は誇張が過ぎるか。精々お手伝いってところかな。王様風にいうと、小間使いとか?」

「さすがにそれは、盛り過ぎってヤツじゃないかな。俺はそんな立派な人じゃないし、王様の仕事のお手伝いなんて、規模が大きすぎて全然実感わかないし。それに徹夜出来ないし」

「ええー、そうかなー? ちょっとくらい盛っても良いと思うんだけどなあ」

「いや、盛ったとして誰に見せるの? そのハッタリ」

 すでに開位というものを貰ってしまったから、平凡なマスターではもうお腹一杯です。

 話しながら手元に広がっている書類や資料、借りた本をまとめる。そろそろ昼食の時間だ。定期的なメディカルチェックを受けているマシュと約束しているから、遅れるわけにはいかない。

「このままマシュの体も普通になっていくだろうけど、きみが望む『普通』に戻るまで、もう少し待たせてしまうね」

「そんなこと…俺よりマシュの方がずっと、辛かっただろうから」

 カルデアで初めて会ったころから印象は全く変わらない、普通の女の子だったマシュに命を預けて、共に戦場を駆け抜けた。限界を訴える体をなんとか保たせながら、恐怖心に耐え、震えを抑えて、ただ傍に居るしか出来ない立香の手だけを頼りに、彼女は最期までその純粋な、でも強固な精神で、立香を護ってくれたのだ。

 同じ死ぬなら、一瞬でも長く共に在りたいと願ってくれたマシュが居てくれたからこそ、乗り越えることが出来た旅だ。彼女が居なければ立香は生きていない。感謝という言葉では足りないくらいだ。

「私はね、立香。きみが、初対面の、冬木で行動を共にした時からあまり褒められた態度とは言い難かった所長の死を、ロマニが、大人が頭を下げるその意味を、ちゃんと重く、逃げずに真剣に受け止めてくれる子で本当に良かったと思っている。それだけで、何とかなると思えたのさ」

 淡い微笑みをたたえるダ・ヴィンチの宝石のような、いつも好奇心で内側から溢れんばかりの煌めきを放つ緑の瞳が、まっすぐに立香を見詰める。

「だから私はアトリエから出た。試すように意地悪も言ったけど、きみはちゃんと行動でも応えてみせた。

 何より、あの時取ったマシュの手をずっと大事にして、信じて離さないで居てくれたこと、本当に感謝しているよ。ギャラハッドはそんな君たち二人だからこそ、手を貸した」

 そうして目の前に佇む美しい人は、とても残念そうに苦笑する。

「…そのことも、出来れば報告書に書きたくないけど、突っ込んでくるヤツは居るからなあ」

 特異点の報告書を作るなら、立香の耐性に関して報告しないわけにはいかないだろう。隠し事が増えれば増えるほど、立香の立ち位置が揺らぐ。揺らぎに疑問をもたれればそこから偽造が暴かれ、虚偽の報告をしたと抗議を受けることになれば、よりいっそう立場は弱くなる。

 だから本当に隠したいこと意外は、正直に報告するしかない。それで、立香が『普通』と大きく乖離することになっても。

「英雄ではなくただの人間として、星の行く末を定める戦いを乗り越えた偉大なる我がカルデアのマスター、藤丸立香。きみが四十八番目に間に合ってくれて、本当に良かった。この先どうなるかは判らないが、出来るだけ手を尽くすと私自身に誓うよ。

 ―――きみに、幸運がありますように」

* * *