レクリエーションルームに、ジオラマのみごとな街が出現していた。

 ボードゲームにテーブルゲームも用意されているのだから、大人の積み木で有名なカプラがあっても驚かないが、それを使ってまずは手慣れたピラミッドと宮殿から始まり、どこから得ているのか現代知識の吸収にも余念のない光輝の神王は、マレーシアのペトロナスツインタワーやイタリアのメトロポール・パラソル、それだけでなく現代の建築物から着想を得たこの世のどこにも存在しないオブジェを作りだし、何故か違和感なく統一されている不思議な街を作り出していた。

 建築王とも名高いオジマンディアスはその作品の出来に大変ご満悦で、ニトクリスなどは光悦の素晴らしさに感激のあまり前が見えなくなっている様子だったが、なによりそこそこ広いはずのレクリエーションルームをじわじわと圧迫している。

 オジマンディアスに真っ向から意見の言えるサーヴァントはこのカルデアに一応いるが、まず二回目の人類滅亡の危機に陥る危険性を孕んでいるので、そこはやんわりとお願いします、と相談室に寄せられ、立香はここに居るのだった。

 有り難いことに、ファラオはジオラマの街をあらゆる角度から写真に収めると、次の作品を作り出すための撤去を承諾してくれた。よろしければ作品と一緒にどうですか、とゲオルギウスが写真撮影に誘えばオジマンディアスとニトクリスの二人は意外に嫌がらずフレームに収まる。ピラミッドや宮殿の観光客の様子で慣れているのかも知れない。

 なお、後片付けはメジェド神がざざっとやってくれた。なんという働き者だろう。そうしてメジェド神を引き連れたニトクリスとゲオルギウスは先に退室し、立香は次の構想を練っているオジマンディアスの背中に話し掛ける。

「ファラオ。次のレイシフトにあなたの力をお借りしたいです」

「よかろう。余も体を動かしたいと思っていた」

「有り難うございます!」

 それでは、とタブレットを使ってサポートに登録するために、管制室に来週のレイシフトメンバーを伝える。特異点の歪みはまだあちこちに残っていて、以前より頻繁ではないものの、まだレイシフトも欠かせない。

「顔を上げよ。お前の瞳が見たい」

 唐突にそう言ったオジマンディアスはタブレットを見ていた立香の顎を問答無用に掴むと、自分と視線を合わせようとする。

 彼は残酷で、横暴で、理不尽なようでいて、実は思慮深く寛大で慈悲のある、そしてちょっと判りづらく戯れも嗜み、他のファラオに心配りもする愛妻家なのだった。第六特異点で初めて謁見した際、罰としてニトクリスの腕を切り落とすと口にした人が、クレオパトラの為に笑いを堪えるような一面も持っている。

 王者でもなければ勇者でもない、オジマンディアスが守るべきただの衆生そのものである、と言ってなお、立香の瞳を見たがるのは不思議だけれど、そういえば以前、魔眼を持つ両儀式に初対面で『目がキラキラしてる』と言われたことを不意に思いだした。

 他にも褒めてくれるサーヴァントもいるから、魔力が多い人には、立香では分からないものが見えているのかも知れない。何か気に入って貰えたなら良いが、ギルガメッシュとはまた違う、きりりとした目力のある美貌が近いのも、目を見せるためにその金色の瞳を見詰め返すのも、あまりの輝かしさに逃げ出したくなってきた。なによりそろそろ首がきつい。

 首の痛さに耐えていると、レクリエーションルームの扉が開く音がして、入ってきた誰かが近付いてきた。この気配は。

「何をしている」

「星の瞬きを見ている。太陽には及ばぬが、儚き万華鏡のごとき燦めきよ」

 オジマンディアスは立香の顎から手を離さないまま、ギルガメッシュの問いに答えた。身分の高い人たちや騎士のみんなは日頃から喩えが詩的すぎてかなり恥ずかしいのだけれど、英霊である彼らにそう言われると少し、誇らしくもある。

「それは既知のことだが、そろそろ離してやれ。こやつは足が短いのだ」

「そうであった」

 立香を哀れんでオジマンディアスが手を離してくれたので、固定されていた首をギルガメッシュの方へと向けた瞬間、立香は声を飲み込んだ。

 自分の足の短さを二人に当然の如く理解されていることより、ギルガメッシュの腕に抱えられているものの存在の方が気になって仕方がない。その、自由を欲して後ろ脚をばたばたしているコスモな生き物。顔から血が引くのを感じながらギルガメッシュへ問う。

「王様、その子は…」

 どこからどう見ても、オジマンディアスから貰ったスフィンクス・アウラードの一匹だ。ニトクリスやクレオパトラにバレたら、驚きのあまり良くて失神、悪くて霊基が軋んでしまうと言われた神獣の仔供。どう考えてもこれはまずい。神王からの罰が下る。

「そこで拾った。貴様の魔力を感じるゆえ、うっかり踏みつける前に連れてきてやったが、サーヴァントに狼を喚ぶだけでなく神獣まで飼うとは、どこまで無法地帯か、ここは」

「ええ―――っ!?」

 ちゃんと部屋にいたはずなのにどうして、どうやって、こんなところに、という疑問を抑えて、とうとう脱出してしまったのか、という驚きで我慢していたはずの声が出た。王様からアウラードを受け取り、怪我や汚れがないかを確かめる。

「王様、有り難うございます…。最近脱出したがることがあって。やっぱり狭い部屋の中じゃなくて、広いところが良いのかな…」

 考えてみれば、将来的には八メートルの大きさになるのだ。時々人の居ない温室に放すことはあるとはいえ、あの狭いマイルームだけで暮らすなんて運動不足にもほどがある。せめてキャットタワーをエミヤとダ・ヴィンチに作って貰うか。バステニャンを作り、『猫科の一番小さな動物、つまり猫は最高傑作である』という言葉を残したダ・ヴィンチは猫派のはずだ。エミヤと共に素晴らしいものを作り上げてくれるに違いない。そのうち部屋にもシミュレーターが使えたりしたらいいのだけど。

 そこまで考えて、は、と気が付いた。

「ニトクリス!」

 さっきまでこの部屋に居たのだ。もしかしたらアウラードを見掛けているかも知れない。動揺しながらレクリエーションルームを飛び出し、この広大な施設の遠くまで見渡せる廊下に倒れていないかと確認するけれど、影は落ちていない。

 とりあえず見えるところには倒れていたりしてないようで安心した。でもこの付近じゃない、別の場所で倒れていたらと思うと、確認したくてそわそわする。けれども、まずはアウラードを部屋に戻す必要があって、その前にファラオに謝らなくてはならない。アウラードを抱えたまま何か会話している二人の傍へと戻った。

「いくらなんでも、だ。限度があろう」

「ほう。―――貴様がそれを言うか?」

 近づく気配にふ、と口を閉ざしたオジマンディアスとギルガメッシュ、二人の視線が同時に立香を捉えるのに、びくりと肩が震えた。こうして二人同時に見られると、その目がくらむほどのカリスマにただ圧倒され、言葉どころか呼吸も苦しくなってしまう。日頃、この二人が立香に対するときは、少しばかりその力を抑えてくれているのだろう。

 控えた距離に佇む立香に、オジマンディアスが自信に満ちた笑みを見せる。

「弁明があるか?」

「ありません。すみません、俺の管理不足です」

 黙っていろと言われたものを、不可抗力とはいえ部屋から出したのは自分だ。ただ、頭を深く下げる。

「よし。では間抜けなマスターへの懲罰、及び気を引き締めさせるため、此度はスフィンクス二百練の儀をするとしよう。全てを見届けてやるゆえ、余への変わらぬ敬愛、そして千古不易の瞻仰せんぎょうを示すがよい」

 ひゃくたいもふえている…!!

 そ、それは途中で五分三十秒の休憩を貰えるものでしょうか。そして何回くらい再開するものでしょうか…。

 いや、オジマンディアスは『過ぎたるは及ばざるがごとし』の人だ。それを強制すればただの犠牲だとはっきり口にする。容赦のないファラオだが、けして人を虐げる人ではない。それなら、立香はただ、いつかのように誠意を持って立ち向かうしかない。今回は頼みの綱のニトクリスがいなくても。

 ……ニトクリスはいないが、王様は居る。

 頭を下げた姿勢のままちらり、と期待を込めて視線を向ければ、がっちり視線が合ったギルガメッシュは、にやりと口の端を撓らせて笑んだ。

「ふ。どうした、以前はみごと蹴散らしたそうではないか。此度もやって見せよ。ま、常日頃尊敬し敬慕している我への想いが抑えがたく溢れ出し、称賛の眼差しでどうしてもと請うのなら、我の手を貸してやらん事もないぞ?

 ―――どうしても、と言うのであればな!」

 声高らかに胸を張るギルガメッシュに、立香はすぐさま完全に平身低頭し、懇願した。

「どうしても王様の、あの素晴らしいウルクの力が借りたいです!! お願いします!!」

「うむ、大儀であった。余への想い、今回もしかと受け取ったぞ」

「あり、が、とう、ござい、ます……王様も……本当に…」

 良かった、最後にはキリがないわとギルガメッシュが鎧装備のアーチャークラスに変わり、エヌマ・エリシュで一掃してくれたから乗り越えられた。茨木童子が宝物庫に侵入して相対した時はマシュと共に謝り倒して逃げ帰ったが、今回は本当に感謝しかない。

 床へ倒れのびている立香の体を、原因であるアウラードがフォウのように軽快に駆け上り、立香の首の辺りに顔を擦り付けてくる。お前のせいで大変だったんだぞ、と思うけれど、可愛いからどうしても怒れない。

 なんとか体を起こし抱き上げると、うりうりと指先でおでこだとかを撫でてやって、甘えて顔を寄せてくるから頬擦りした。魔力はもうないからご飯はあげられない。明日あげるから許して欲しい。

 ふと視界にオジマンディアスの大きなてのひらが入って、アウラードをひと撫でしていく。その際、手の甲が立香の頬にもするりと触れていった。その動きに添って視線をあげれば、オジマンディアスが立香を見下ろしている。そうしてひとつ、満足そうに頷く。

「よく懐いている。魔力を通して色も似通ってきた。そのまま励み、よく躾るがよい」

 そう言うと朗らかに笑って、彼はレクリエーションルームを去って行った。それを見送りながら、立香はやっとのことで立ち上がる。足が生まれたての子鹿のようだ。

「今更離しても意味はなかろうな。貴様の魔力を感知するようになっている。神王と在り方をしておきながら、なんだあやつの寵の深さは。しかも自分の魔力を分けたものを、貴様の魔力で育てさせるだと? 我でもせぬわ」

 霊基をキャスターに戻したギルガメッシュが、腕を組んでため息を吐く。少し苛立っているようにも見えた。やはり、神獣を立香が持つには不相応過ぎるのだろうか。いや、そうかもしれない。実際こうやって部屋から出してしまうし。アウラードを抱き上げたまま落ち込んでいれば、ギルガメッシュは手を振って話を変える。

「いや、いい。さすがに日も暮れた。それをさっさと部屋に戻し身を清めよ。自分以外の魔力で出来たものなど、我の工房には絶対に入れんぞ」

 多少は疲れたのかも知れないが、それでも機嫌はそこまで悪そうではない。ウルクでも頼ったときは楽しそうに戦っていたし、いつも忙しそうな彼の気分転換になったのならいいのだけれど。

 そう思いながら彼の言葉を聞いて、ぱちりと瞬きをする。アウラードは、王様の部屋に、入れない?

 立香の表情を見て、ギルガメッシュはふ、と目を細めてゆるりと笑む。

「夜だ、立香」

* * *

 アウラードを脱いだ魔術礼装で隠しながら部屋へと戻り、ちゃんと部屋に三匹揃っているのを確認した後、ベッドの上に寝かせた立香はシャワーを浴びて食堂へ行った。そこでニトクリスとクレオパトラの元気そうな姿を確認して、ホッとする。

 キャットタワーについてキッチンに立つエミヤに相談していると、す、とカウンターにトレイが差し出された。鮮やかな彩りのサラダや、細切れの焼いた肉、そして薄いパン。シチューやピクルスっぽいものなど色とりどりの料理が乗っている。

「これなに?」

「ウルク王のご所望だ。疲れ果てたから、その原因に酒食を持ってこさせろと」

 部屋から出るのが億劫なほど疲れてるのか。やっぱり日頃から、カルデアでフルに働いている王様を戦闘に駆り出したのはよくなかった。突然巻き込んで本当に悪いことをしたな、と立香は反省する。元々王様のところに行くのだし、当然運ばせて頂きます。

「喜んで!」

「…ここは居酒屋じゃないぞ、マスター。キャットタワーの件についてはダ・ヴィンチ女史にも伝えておこう」

 エミヤの言葉に恥ずかしくなりつつ、トレイを受け取り食堂を後にした。

 ギルガメッシュの部屋を訪れれば、今日は自分だけで入浴をすませたらしく、ベッドの上、飾り枕を山積みにした一角に上半身を預け、いつも立香に貸してくれるボルスタークッションを足下に投げ出し、王様は酒を飲みながらゆったりと寛いでいた。服を軽く身につけているところを見ると、すぐ寝るつもりはないらしい。立香があまりにも王様の裸に慣れないので、寝る直前までは着る、という慈悲を与えてくれた結果だ。

 部屋に入ってすぐ目に付く記名台のような形をしたブックスタンドでは、いつも王様が手に持つ粘土板のディンギルが開いた状態で休んでいて、けれど時折戦闘時に見るような光の文字が静かに浮き上がるから、何かを自動書記しているのかもしれない。部屋に漂う今日のお香は、いつもと違う香りがした。

 部屋のあちらこちらにある複数の壷や魔術による道具にぶつからないように注意して進み、大きな望遠鏡やくるくるとそれぞれ別の方向へ回転する天球儀の横を通り過ぎ、ギルガメッシュの居る天蓋からカーテンの流れるベッドへと近付けば、彼の指が自分の足元を指す。

「そこに座れ。今日は許す」

「有り難うございます」

 トレイを先にベッドに引き寄せたサイドテーブルに置いて、立香はそっと腰を下ろした。なんだこれ、すごい、これはどこの高級ホテルのベッドマットですか。ふかふかで、しかし程よく反発して必要以上に沈み込まない。体にフィットする感が最高だ。さすが王様のベッド、質が違いすぎて体がびっくりしている。

 立香が感動している横で、ギルガメッシュが料理に目を向けながら訊いてきた。

「食事は終えたか」

「はい」

「ならばこれでも飲んでいろ。ウルクでお前が口にしていたものだ」

 いつかのウルクの大杯のように、どこからともなく取り出されたゴブレットを渡される。お礼を言って口を付ければ、果実水だった。一気にカルデア大使館での生活が甦り、思わず笑顔になる。

「懐かしい味がします」

「お前はウルクで一ヶ月飲食をしていたからな。少しは舌があちらに慣れたか?」

「そうですね、羊の肉には慣れました」

 それから、バターケーキの美味しさにも。

 そう答えれば、これも食せとナッツやドライフルーツの入った小皿を渡された。これはおつまみではないだろうか。枝豆じゃないから要らないのかも知れない、と思い有り難く受け取る。

 しばらく会話しながら晩酌に付き合っていると、いつの間にか立香が食べている姿をじっと見ていたギルガメッシュが言う。

「人間の体の水分はおよそ一ヶ月程で入れ替わるという。お前の体もウルクから戻ってしばらくは、ユーフラテスの水の味を知っている、ウルクの民であったろうな」

「えっ、そんな素敵な話はもっと早くに知りたかった…!」

 水の味、と言われても、さっぱり思い出せない。知っていたらもっと味わったのに。ケイオスタイドという、恐ろしい泥の水のことだけはよく覚えているのだけれど。そう考えるととても勿体ない気持ちになった。

 食事を終えて片付けが済んでから、改めて立香の都合に付き合わせてしまったギルガメッシュに感謝を伝える。

「王様、今日は本当に有り難うございました」

「よい。我も体を鈍らせることは好かぬ。―――だが、あの男も我も、青い石に反応するのは仕方がないこととはいえ…」

 ベッドの上に座り、てのひらの中のゴブレットをするりと弄ぶギルガメッシュに、手を伸ばせば届く距離でため息混じりに言われる。

 そしてひたり、とその金色の光を弾く、奥深くに色を濃く重ねたスピネルの瞳で立香を見据えた。

「立香よ。ラピス・ラズリを見せたことを覚えているか。ディンギルを使う際、魔力の代わりに砕いたあの石のことだ」

「もちろんです」

 とてもよく覚えている。

 星をちりばめたような、宇宙を内包したかのような美しい石だ。ギルガメッシュやオジマンディアスの生きた時代においては、金よりも価値のある鉱石。

「ラピス・ラズリというのはな、深い色をしていようとも海の名前で呼ばれたことはない。ことごとく空の名だ。唯一付けられた『ウルトラマリン』という名前も『海の向こうから来た青』という意味。海そのものの青さを指しているのではない。

 他に青い石はあれども、総じてラピス・ラズリが蒼天を指すのだ」

 現代よりも、昔の空は青かったと子供の頃に聞いていて、ウルクでは確かにそうだと感じていたが、それでもラピス・ラズリの色は濃い。けれど、彼らの時代においては、あの青こそが空。

「その中でも、稀少な藍方石を多く含む星を抱く天空の欠片、―――まさしくその中に星を飼っている、お前の瞳のことよな」

 魔力を帯びれば光を放つ。きらきらと。

 ギルガメッシュはそう言いながら、立香の顔へと左手を伸ばした。温かいてのひらが立香の頬を包み、そうして親指が涙袋の下をなぞる。

 赤い透明さと深遠さを併せ持つ瞳が、それを縦に割く細い瞳孔が、驚きで声も出ない立香の瞳を、瞳から立香のなかを、見ている。まるで立香の形どる全てを、肉体の爪先から、魂のひとかけらまで記憶するかのように。

「そうして旅の中、お前はその蒼い目で星を、己の天運となるだろう数多の星を観測し、捉えてきたのだろうよ。この資料館、天文台と同じ名前を冠するカルデアのようにな」

 夜空の星と同じように、遥かな過去、遥かな時代に輝いた誰かの光を、カルデアは百年単位で受け取っている。

 そして何かの願いを持って紡がれた誰かの光を書き留めて、新しく読める物語として保存する。読み手によって物語は変化する。善悪が反転することもあるだろう。後から価値ががらりと変わる物語もあるだろう。

 いつか最高の読み手が現れるまで、このカルデアは物語を保管し続ける。

 それが聖杯に頼らないカルデアの召喚、守護英霊召喚システム・フェイトだ。

「そのお前を、カルデアスは捕まえた。

 自分と同じ色をした瞳を持つ人間。四十八番目、それより早く見付けてはならぬ。棺に取り残されてしまう。遅くては間に合わぬ。人理焼却に巻き込まれて終わりだ」

 地球の魂の複製品が選んだ四十八番目。

 そうしてひとり残された人類最後のマスター、立香は、このカルデアでギルガメッシュ叙事詩を読んだ。

 己を最高の読み手だとは思っていない。ギルガメッシュを使い魔として利用したいと考えたこともない。

 ただ、知りたかった。

 どんな人物なのか。どんな声で、どのような旅をして、どのように生き、なにを思い感じたのか。

 英雄王ギルガメッシュ。その人の命を識りたくて、立香は手を伸ばしたのだ。

「ハ。まったく、…まったく。お前の瞳はなんだ。未来を欲して星を集めては、より輝くか」

 ギルガメッシュはくつりと喉を鳴らす。その指先が、立香の耳を、その裏を顎の先をするりするりと、果物の表面をなぞるような繊細さで辿る。

 その予測出来ない動きに、立香の鼓動は胸を叩く勢いで激しくなっていく。オジマンディアスほどの拘束力は全くないのに、身動ぎひとつ、呼吸ひとつ、うまくできない。

 目の前のギルガメッシュから、視線を外せなかった。

 ギルガメッシュの声はまるで演説するかのように遠くを思い伸びやかで、近くに聴かせるように穏やかな響きをしている。

 だからこそ現実味がなく、だからこそ、おそろしい。

「星とはな、すべからく手に残らぬものの名よ。手に入らぬからこそ美しいのだ。それをお前は人の身で、一時的にだろうと手に入れた。

 その星を、お前は何とする?」

 美しいままに保てるか、それとも人間らしく、欲望のまま壊してしまうか。

 王の手は立香の顔から去っていき、まるで悪魔の誘いのようにゆっくりとした口調で、金の睫毛が作る格子越しにそっと赤い瞳が囁く。

 彼は邪悪な人ではないが、人間の強い欲望を否定しない。それで世界が滅びようとも、人が選んだ結果ならば。

 ギルガメッシュの作り出す雰囲気に呑まれ、こくりと喉を鳴らした。その様子を目にした彼は、獲物を捕らえたようにさらに瞳孔を細めて嗤う。

「さて、なんとも腑抜けた顔をしているが、判っているのやら。

 カルデアのマスター、藤丸立香よ。貴様は我をも捉えたと、そう言っているのを判っているか?」

「え…」

 そんな。

 そんなつもりは全くなかった。だって誰が思うだろう。手を伸ばしても届かない人を、既に自分が捉えているだなんて。そんな風に、ギルガメッシュに思われているだなんて、想像することなどあるだろうか。

「俺が? ―――あなたを?」

 声が震える。そんなことがあり得るのか。立香は動揺した。知られていることは多くあるだろうと思っていても、覗かれた心、その欲求の大きさをまざまざと目の前に曝け出されたようだ。

 ギルガメッシュは奥底に逆らいようのない獰猛さを隠さず、野生的なしなやかで力強さを感じさせる笑みで立香を見る。

 これは嵐だ。根こそぎこちらを曝いていく。

「なんとも思い上がった不遜で我欲に満ちた人間よな。手に入らぬはずの星を手を伸ばし求め、その瞳に捉えるお前はけして無欲などではないさ。

 ―――だが、それでよい。それでよいのだ。だから言葉にせよ」

 そうして彼は、立香の欲望もまた、肯定する。

 あのとき。あの、ウルクでギルガメッシュに伸ばした手が届かなかったときに、奇跡はそれまでだと思ったのだ。普通なら出会えない人に出会い、その力強い言葉と微笑みで認められ、命を救われて後を託され。どんなに惹かれようともそれ以上は依存だ。それほどのカリスマが彼にはある。

 それに、立香が共に歩くサーヴァントは別に居る。ギルガメッシュにエルキドゥが居るように。

 だから、互いの境界線を越えない限りは良いかと思ったのだ。望んでくれるなら、その時だけは傍に居られることを喜んでもいいだろうと。いつか別れる、その日まで。

「此度の現界での我はあれこれと特別だが、貴様次第ではあると言ったはずだぞ。他人のことを想えば楯突くことも躊躇わぬくせに、自分のこととなると『何でもない』などと口にする。目は口ほどにもものを言うとは、よく言った。目でそれだけ言えるのなら、もういっそ口でも言ってしまえ」

 戸惑う立香の耳を通して、全てを見通す王の慈悲深い声が、雨だれのようにぽたりぽたりと胸に落ちる。それは毒のように、じわじわと立香の胸に広がっていく。

「欲しいと言え。離したくないと、触れたいと言え。

 それが魂からの渇望なら何故とは誰にも問わせぬ。我はあの狼や神獣ではない。均しい慈しみなどもう飽いた。我を捉えたのならそれなりの熱を見せてみよ!

 さあ、手を伸ばせ、あのとき出来なかったことをしてみせるがいい!!」

 ―――どうしてこうも、この人は。

 立香は笑おうとして、失敗し、くしゃりと顔を歪めてしまう。

「…貴方の傍は、心地良すぎる」

 この、厳しくも自信に満ちた人に肯定される、というのは麻薬のようだ。

 あのゲーティアですら、マシュの肯定を欲しがった。肯定されたいという欲求は、誰しも持つもの。

 自分は間違っていない、自分はここに居てもいい、自分は生きていてもいい。

 本来誰の許しも要らないはずのことを、人間は、誰かに肯定して―――認めて貰いたがる。

 その肯定を与えてくれる人に、人は何かしらの感情を持たずには、いられない。

 ましてや、肯定を与えてくれそうな人だと、勝手に期待することだって。

 だってそうだろう。肯定は、一種の愛だからだ。

「いつ魔杖の藻屑になるか判らぬのにか」

「俺が貴方に依存すれば、きっとそうなるでしょう」

「フン、それが恐ろしいから、口にせぬと?」

 つまらなさそうな顔をして鼻を鳴らすギルガメッシュに、立香は首を振った。不敬かも知れないが目を逸らさずにまっすぐ、その赤い瞳と視線を合わせる。

「いいえ。俺はきっとこの先貴方が居なくても、いきます。王様に色々導いて貰えたので」

 この人が育てたのは、一人で歩けないような人間ではない。弱くともきちんと立って、己の目で前を見据え、誰かと支えあえる人であれと望まれた。教えられたことは共になくとも胸に生きる。そのように、別れまでもを『楽しんで』鍛えられている。

 ―――それなら、立香もそれに応えなくてはならない。

「そうさな。お前と共に手を取りながら人理の旅を往くのは、我ではあるまいよ」

 ギルガメッシュもまたこちらを捉えたまま、声音は変わらず厳しさを含み、聞き方によっては突き放しているようにも取れる。

 そもそも立香には、自分の瞳の中に星を飼っていると言われてもさっぱり判らない。だが、手を離さなくてはと思いながら、この目が掴まえて離さないというのなら、もう認めるしかない。

 どれだけ無様だろうと、みっともなくても、厚かましい願いでも。目の前に居る今でもギルガメッシュを損ないたくないと思い、大切にしたいと思い、あのときウルクで伸ばした手の事実は今更、消えたりはしないのだから。

「…でも」

 震える。右手を伸ばす。あのとき出来なかったことをする。伸ばした手は、ギルガメッシュの素手である左手に触れた。その瞬間びくりと立香の右手は跳ね、けれどそのまま、彼の手を両手で握りしめる。

 ああ、温かい。

 エーテルで出来ていようと、半受肉した生きた人の手だ。魔術だけではなく、重そうな武器も軽々と扱うそのてのひらはごつごつとして、とても整っているのにしっかりした、男の人の手だ。この手で彼はエルキドゥと戦い、旅をし、国を治めた。

 ―――この温もりを知りたかった。

 そう思うと胸が苦しくなるほどの切なさが迫って、喉が震える。息が苦しい。苦しくて口を開けば、言葉がころりとこぼれ出てしまった。

「でも、俺は貴方がいい」

 ああ、言ってしまった。祈るように彼の手を握る両手を胸に押し付ける。立香はエルキドゥではない。唯一無二の存在にはなれない。この人の手は離さなくてはいけない。自分が掴まえていて良い人ではない。そんなことは全部判っている。最も烏滸がましい願いだ。―――それでも。

 それが何だというのだ。

 そんなことはギルガメッシュだって承知の上だ。これだけ唆しておいて、知らない振りなんかさせるものか。

 立香が掴まえたとして、それを振りほどけないことはないだろう。それをしない時点で、ギルガメッシュだって同罪だ。別れはきっと来るだろう。ウルクで出会い、交わした言葉で生まれる感情があるなら、立香の人生に意味は既にある。

 だがそれ以上に、いずれ別れるのなら、少しでも重なった時間を共に過ごしたい。人の生は短い。いつか死ぬなら、ひとつでも多くの思い出を胸に欲しいのだ。二度と会えない人との思い出があるのと、ないのでは、ある方が絶対良いに決まっている。

 なにより、今、目の前にギルガメッシュが居るのだ。

 ここに触れる手があって、ぬくもりがある。それが全部だ。

 元々、特別な存在ではない立香は自分に席がないことには慣れている。そこにねじ込んでいった、人理修復の旅だ。取るに足らぬと言われ、資格なしと言われたゲーティアにでさえ、最後に認めさせたのだから。

 ギルガメッシュをしっかりと見詰める。この瞳にそれだけの力があるというのなら、けして逸らさない。

「すみません、それでもどうしても、俺は貴方がいい…!」

 ギルガメッシュ叙事詩で、エルキドゥの記憶で、そしてウルクで。立香はギルガメッシュを識っていった。周囲の人の色んな想いに、ギルガメッシュその人の考えに触れるうちに。

 自分が伸ばした手を彼が掴んでくれるなら。

 それはとても、意味があるものなのではないかと、思ってしまった。

「ほう。人間風情が分不相応にも我を要らぬと言った口で、身勝手にも我が良いと申すか。唯一無二の席はどこにもないと知りながら、恥知らずにも寵を得たいと?」

 嘲りの温度で言葉が降ってくる。

 体全体が感じる、ギルガメッシュから発せられる圧迫感に呼吸が詰まる。一言一言が胸に刺さって抉るようだ。そうだ、その通りだ。自分にこの人を求める資格はない、と判っていても情けを請うている浅ましさは自分自身がよく判っている。体温がぐっと下がっていく。胸を抑え付けた彼の手を持つ冷たい両手が震えた。全てにただ、耐える。

「独りよがりの厚顔にも程があるわ。この我が凡百の魔術師なぞに応える道理はひとつもない。だが…」

 そこまで言ったギルガメッシュは瞼を閉じて言葉を切り、そして。

―――よく言った」

 立香が胸に掴んでいる左手を下ろさせ、晴朗な顔をしてそう、笑った。

 見開いた視界に映るその笑みに安心したら、ど、と一気に涙が溢れてきて、ぼたぼたと立香の膝を濡らす。それを、掴まれたままのギルガメッシュの左手が拭うような仕草をし、たわやかな表情で見ていた。

「そう謝らずとも良い。特に許す。言ったであろう、その渇望が真なるものなら、何故とは誰にも問わせぬと。お前の願いは確かに過ぎたるもの、だが我はそれを悪と咎めはせぬ。

 それにな、これほど浅ましい人間を、我は知らぬ。この不遜な純情さを愛でることが出来るのは、我しかおるまい」

 ギルガメッシュ自身も問わないという。あるいは、言葉に出来ない部分すら、彼には筒抜けなのかもしれなかった。

 まだ『楽しむ』ことは難しい。

 涙が幾分落ち着いてきて、今度はずっと高鳴りっぱなしの鼓動が収まらない方が気になってくる。さっきからとても、胸が苦しい。さらに言えば、じっとこちらを見詰めてくるギルガメッシュの視線が痛い。

 これは待っている。立香の行動を待っているのだ。手を掴むだけで終わるつもりかと、視線が語っている。

 立香は恐る恐る、上体を前に倒し額を彼の胸へと付けた。

 滑らかな皮膚の感触を額越しに感じる。この胸はあのときの彼のものではない。もうそこに瀕死の重傷はなく、血も流れては居ない。ただ触れる額に確かな熱を伝えるのみだった。

「王様、温かいですね、けっこう」

 安堵して緩んだ口からそんな軽口が出る。だがギルガメッシュはそんなことよりも、そこで動きの止まった立香に不満の声を上げた。

「もしや貴様、それで終わりとでもいうつもりではあるまいな? それではつまらんではないか! この我を手に入れておいて、なんだその体たらくは!? もそっとがっついて想いの丈を示せ!!」

 そう言われても、経験値の低い日本人の学生にどう頑張れと。既に色々精一杯で、もはや胸の鼓動は全力疾走した時並に破裂しそうだ。今ですら恥ずかしくて、熱くてたまらない頭がどうにかなりそうなのに。

 自分からはけして動かないギルガメッシュは不満気な顔を隠さないまま、立香の指の間に己の指を絡ませたり摘まんだりと、手遊びをするように動かす。そうすることで、立香の次の行動を促すかのように。

を手にして、その目を我欲に灼くか、伸ばした手か指が千切れるか、いずれにせよ無事にはすむまい。だが、識りたかったのだろう? ならばどうなっても後悔はすまいな?」

 ちらりとこちらを見てくる視線は、試すような、からかうような色を含んでいる。

「無意識に強く求めたにせよ、縁を手繰って固く結んだお前はもう掴んでしまった。ならば簡単に手放せると思うなよ。逆に利用し尽くす気概を見せるがいい。我も傍らにいるうちは、お前のために先を読もう」

 そうしてギルガメッシュはぐ、と力を込めて指の絡まった手を握り顔を上げさせ、それと同じくらい力ある眼差しで立香の瞳を確かめた。

「我はそれ未来を見届けることにしよう」

 お前次第だと、彼は言う。とても優しいと感じられる声音を、冷ややかな笑みに乗せて。

「百点で応えてみせます」

 いつかのウルクの夜と同じ答えを返せば、ギルガメッシュも同じように表情を弛めて見せた。

 立香は改めて、両手で包むように束縛している彼の左手を見る。

 実感は全くないけれど、この目映いばかりの人を手に入れたらしいからには、ギルガメッシュという美しい星にけして傷は付けるまい。壊すなんてもってのほか、この星がよりいっそう輝くよう、立香はその方法を探していかなくてはならない。それは多分難しいことだろう。

 でも、それはきっと、楽しいことだ。

「お前はカルデアスが捉えた地上の希望であり、数多の英霊という星を包み込む空でもある。そして星が見えるのなら、その瞳が蒼天であろうともそれはやはり、夜なのだ」

 そういう理だ、とギルガメッシュは告げる。

「夜の瞳を持つウルクの旅人。ウルクの民を助け、彼の地を愛しみ、数多の別れを乗り越えて来たものよ。お前はあのとき、ウルクは健在だと言ったな。お前はまだ、戦えると」

「はい」

 立香は繋がった手から疼くように走る鼓動に耐えながら、ギルガメッシュの瞳から目を逸らさず、こくりとしっかり頷いた。

 瀕死の重傷を負ってなお、立ち続け、戦い続けた王の強靱な背中を見て『否』と応える人間はいない。

 そして王の問いに応えたなら、それは、後を任される覚悟を呈したのと同じ。己の全てを掛けてティアマトを退け言葉通りにウルクを健在にしてみせると、王の死の目前に忠義を示した。

 立香の返事を聞いて、ギルガメッシュも尊大に頷く。

「うむ。相変わらず小生意気で良い返事だ。であれば、お前は真実ウルクの民。我のウルクはここにまだ在るということ」

 ―――ウルクの民。

「俺が…?」

 呆然とした声が出る。

 母なる神、ティアマトによって滅ぼされる未来を知ってなお、最後のそのときまで戦うと決めた勇気ある人々。

 弱きを知りながら、弱きを省みる事はなく。強きを知りながら、強きを認める事はなかった。その王が、ウルクで弱きものを認め、強きものの抗いを間違いではないとも認め、喜び、『ウルクは幸福な都市であった』と言うほどの。あのウルクの民の一人に立香が少しでも近づけていたのなら、こんなに誇らしいことはない。

「そうとも。そして、だ。お前がウルクの民ならば、未来のこの地でも王の喜びのためにいるものだ。そうであろう?」

 そう確認されて思い出す。ギルガメッシュは賢王と呼ばれていようと、基本的に自分のために国を治めたのだ。民は王の喜びのために居る。立香をウルクの民だと言ってくれるのなら、立香もまた、彼の喜びのために居るのだろう。

 ギルガメッシュらしい言いように、立香は否定することなく再びはい、と頷いた。その素直な様子に満足したのか、蠱惑を孕んだ赤い瞳が淡く細まる。

「ならば良く聞け、立香よ。空を舞うようにして地を歩む者、そうお前を喩えた雑種がいるな。

 それもよい。鳥というなら遠く、前人未踏の地、または見果てぬ夢まで飛ぶがいい。我とてウルクの民も、ましてや鳥も、宝物庫には入れぬ。

 ―――だが、お前の帰る場所はどこだか、わかっていような?」

 問いの意味が判らず、立香はぱちんと瞬きを返す。帰る場所はどこだ。カルデアか、それとも日本にある実家か。

 だが、ギルガメッシュはそんな話をしているのではなかった。

「お前がこの先いずこかで果てようとも、ウルクの民なら我がお前の冥府での行く先を決めてやれるだろう。まあ、そこが女神の懐かもしれんがな。あの情の強い冥界の女主人なら、お前の入った檻を冷たいかいなに抱いて、温めようとしてくれるだろうよ」

 ギルガメッシュは立香から視線を外し、人間が見えない遠い場所を見ている。冷たい地の果て、そこに立つ誰かに向けるように語りかける。

 そこに、いずれ立つだろう、立香に向けて。

「冥界には太陽の光などない。つまりは常に夜だということだ。―――藤丸立香、」

 ギルガメッシュはひたりと立香を見据え。

「この契約の報酬として、我はお前の夜を、貰い受ける」

 そう言った。

 立香が生きている間は、その短い人生の中の、一番長い時間を。

 そうでないのなら、その後の魂が休息を得る長い長い―――永遠にも似た夜を、彼は貰い受けると言っているのだ。

 立香と共に歩むサーヴァントは、ギルガメッシュではない。それは変わらない。

 だから、もしいつかギルガメッシュと別れる時が来たとしても、それはただ、その時共に居ないというだけ。

 帰る場所が同じならば、それは永久の別れではない。そう、彼は言っているのだ。

 立香が本当に、ギルガメッシュの言う冥界に行けるかは判らない。けれど、彼が言うのならきっとそうなのだろう。

 迷って随分と時間が掛かるかも知れないが、いつか、立香はそこへ辿り着く。彼が不老不死を求めた、あの旅のように。

 立香は両腕をギルガメッシュへと伸ばし、力の限り抱きしめた。

「なんだ貴様、やっとか」

 しかし本当に貧相な力よな、と言ってくるのに、更にぎゅうぎゅう力を込めて返す。サーヴァントには痛くもなんともないらしいのが腹が立つ。しかも日頃見ている通りに筋肉の弾力が圧迫に返してきて手応えらしいものがない。鍛えれば厚みが増す方ではなく、引き締まる方か。

 良い匂いまでするし、色んな面で到底勝てやしない相手に、なんだか笑いが出てきた。

「…はは、なんだ。俺、とっくに全部、王様のものじゃないですか」

「何を言っている。最初からそう言っておるだろうが、この覚えの悪い小間使いめ」

 唯一無二の友は既に傍らを去り、誰かを臣下にすることもないはずの彼が立香を小間使いと呼ぶことに関して、もうなにも考えないことにした。立香は言葉にし、孤独のはずのギルガメッシュが立香を傍に置く。その事実が全てだ。

 二人の関係に後から誰かが意味を付け、価値を付けることもあるかも知れない。

「お前は我に旅の話をせよ。なまなかの話ではつまらぬぞ。新しい出会いへの喜び、胸躍る未知への飽くなき探求心、驚きも恐怖も全て娯楽として楽しめ。それらを全て満たしてこそ、人理の旅路を往く甲斐があるというもの。

 お前の言葉は我の目を覚まさせる。その目で見てきたあらゆるものを囀り、我を楽しませるがいい」

 抱きつく立香の顔を上げさせ、その瞳を確かめたギルガメッシュはゆるりと笑む。

「それが我が手放す、旅人の務めだ」

 そういう言葉とは反対に、ギルガメッシュはようやく自分から、立香をその腕の中に囲い込んだ。

 「我は人であった。人の王としてウルクを治め、神と決別した。この世界では特異点ゆえあの場で死ぬ必要があったが、なにより未来に生きる貴様のその珍妙な旅路には、生憎死なぬと付き合えぬ。だから死んだ。それだけのこと」

『本当にボクは昔から、マスターのサーヴァントなんですね』

 小さなギルの言葉が頭に蘇って、ギルガメッシュの腕に囲われたままの立香の頬がじわりと熱持つ。ギルガメッシュは人の悪い笑みでその赤さを指の背で撫で、同じように泣いた所為でまだ赤い鼻を摘まむ。

「英霊は泡沫の夢だ。いずれは醒めて消えてしまうもの。いつかの別れが約束されているもの。

 だが、『今』を生きる人間に喚ばれている時だけは、英霊ですら『今』を生きている。何かを理解し、育もうとし、愛そうとする。

 ―――たとえそれが一夜限りの夢だとしても。英霊にんげんが夢見ることに何の罪があろう」

 子守歌のように。読み聞かせるかのように。その声は優しい王の許しを持って夢見心地に立香の耳に羽のように柔らかく触れる。

 全てをみたひと。人間の悪意も、人間の善き行いも、それらを一つの紋様として人の築いていく未来を見ている。

 「立香よ、よく目を凝らしておけ。数多の星を捉えてきたその蒼天の瞳で、我を、我の星の如く地上の隅々を見通すこの輝きを、よく見て覚えておくがいい。

 そして、先が見えぬ夜を進む時、または多くの星がお前の視界を遮ろうとも、その中で唯一の、この王を見付けてみせよ」

 なにせ、この我の持つ光は冥界をも照らすからな。

 そう、ギルガメッシュは自信に満ちた顔で笑う。

 そうして立香は、初めて天蓋の下へ招かれた。

* * *